− 静謐 −






 こん、こん、と遠慮がちに扉を叩く音がした。

 聞き逃しそうなその音に、紫鴛は扉の方向に顔を向ける。
 そこには、薄く開いた扉の間から遠慮がちの顔を覗かせる悟空の姿があった。




「どうしたんですか?」
「・・・入ってもいい?」
「ええ、どうぞ」
 紫鴛は読んでいた途中の本にしおりを挟むと悟空を迎えるべく席を立つ。
 闘神の宮の一角にある紫鴛の部屋には最低限の物しか置かれておらず、来客用の
 椅子さえ無いのだ。
「あ、いいよ。オレ・・・」
「大丈夫です、折りたたみの椅子を用意してありますから」
「うん・・」
 悟空は紫鴛に促されるままに椅子に腰掛けた。
「焔は・・・ああ、地上に下りているんですね」
「うん。是音も一緒だから・・・何かつまんなくてさ・・・邪魔だった?」
「悟空ならいつ来てくれても歓迎しますよ」
 滅多に見ることのない紫鴛の微笑に悟空はほっとしたように破顔した。
 そんな悟空の前にホットココアを差し出す。
 それは甘いものが好きな悟空のために用意されているもので、もちろん紫鴛が愛飲している
 わけではない。
 歓迎する、という言葉もあながち儀礼ばかりでは無いのだろう。
 そのココアを礼を言って受け取った悟空は一口含み、ほっと肩を撫で下ろす。
 そして・・・


「焔てさ・・・」
「はい?」
「どうしてオレを一緒に連れて行ってくれないんだろう?」
「・・・・・」
 一言では答えきれないその問いかけに紫鴛はとまどう。
「足でまといなのかなぁ?」
 それだけは無い。
 悟空の戦闘能力は焔に比肩する・・どころか上を行くのでは無かろうか。
「それとも・・・信じてないのかな・・・?」
 ず〜ん、と悟空の表情が暗くなる。


 確かに。
 焔は悟空が下界に下りることを恐れている。
 いや、下界に下りて・・・例の3人と接触してしまうことに。
 焔は恐れているのだ・・・悟空を失ってしまうことに。
 

「悟空は下界に下りたいんですか?」
「う〜ん、それは別にどうでもいいけどさ・・・オレ、焔の傍に居たいんだ。邪魔になるかも
 しれないけど何もせずに待つだけなんて嫌だ」
「・・・・・・」
「焔がオレを・・・大事にしてくれてるのはわかるけど・・・守られてばっかじゃ意味ない」
「・・・・・・」
 何と強く真っ直ぐな気性だろうか・・・眩しいばかりに。
 その強さに惹かれぬ者は居ない。
 その抱える闇が濃いければ濃いほどに、その眩さに焦がれよう。

「焔には言ってみましたか?」
「言った!・・・けど、ダメだって・・・」
「そうですか」
 焔は悟空の願いならどんな無理だと思われるものでも大概叶えてやるが、その願いだけは
 叶えてやることは無いだろう。
 それほどに焔にとって悟空は唯一無二な存在なのだ。
 ただその存在が傍に在ることを望み、失ってしまえば狂うほどに。
 だが、悟空は守られるだけでは嫌だという。
 その擦れ違う思いはいつか大きな溝となって二人の間に立ちふさがるかもしれない。
 そのとき、悟空は果たしてどうするのだろうか?


「・・・悟空、闘神の天界での役割を知っていますか?」
「ふぇ?悪い奴をやっつけるんだろ?」
「考えとしては間違ってはいません。でも、どうしてそれが闘神で無いといけないのか?
 他の神々では駄目なのか・・・考えたことがありますか?」
「えー・・・ううん。でも、焔が・・・闘神が天界で一番強いから・・・?」
「確かに焔は強い、この天界でも焔に敵う者はそうは居ないでしょう。けれど神々の中には
 焔でさえ圧倒してしまえるほどの力を有した存在も確かに存在するのです」
「え!?焔より強い奴が居るのか!?」
「そう、例えば・・・観世音菩薩」
「え・・菩薩のおねーちゃん?」
「神力から言えば、焔は足元にも及ばないでしょう」
「へぇー凄いんだ・・・」
 悟空は素直に感嘆した。
「それなのになぜ、焔・・闘神なのか?」
「・・・・・・・」
「それは・・・・闘神にしか”殺す”という行為が許されていないからです」
「・・・・・・え?」
「神々は不殺生。その身を血で汚すことを許されません。それは不浄の行いとして神位を
 落とすことになるからです。けれど、それでは下界を管理することはできません。だから
 ”殺す”ことの出来る者を用意した。神位など関係ない、神でありながら神々の摂理から
 外された、神々の浴びるはずの血を代わりに受ける者。それが『闘神』なんです」
「・・・・・・・・・・・・・」
 悟空の手からカップが転がり落ちる。
 からんからん・・と硬い音を響かせて床に転がった。




「戦うことが、殺すことが、血を浴びることが・・・闘神の仕事なんです」




「そ・・・んなの・・・っ」
 悟空が座っていた椅子から立ち上がった。
「おそらく焔は、悟空・・あなたの手を自分と同じように汚したくないのでしょう」
 紫鴛は続ける。
 
 テーブルについていた悟空の手が力を入れるあまりに震えている。
 驚きの過ぎ去った金色の瞳に浮かんだのは『怒り』だった。


「そんなの・・・馬鹿だっ!オレはもう殺してる!たくさん殺してるっ・・この手で・・・っっ!
 だけど・・・汚れるなんて・・・思ったことないっ!そんなこと思うなんて馬鹿だっ!」
「でも焔はそう思っているんです」
「そんなのダメだっ!オレは汚れないし焔も汚れてなんか無いっ!」


 その強さが・・・・・焔を救う。


 紫鴛は目元を緩ませ、床に転がっていたカップを拾いあげた。
「悟空、あなたらしい答えです。なら、やるべきことは私などに聞かなくともわかるでしょう?」
 悟空は目を見開き、くしゃりと嬉しそうに笑った。


「うんっ!焔がダメだって言ってもついて行く!ついて行って汚れてなんかいないって
 言ってやる!」


「・・では、悟空。あなたに教えてあげましょう」
「?何を?」
「焔の傍に・・・下界に降りる方法です」
 紫鴛は人差し指を口元に当て、『秘密』の仕草をした。





























「・・・・・ここ?」
「はい」
 そこは闘神の宮を少し離れた森の中にある泉。
 一泳ぎしたいなと悟空が思ったときには訪れている場所でもあった。
「心に念じて下さい。今、一番悟空が会いたいと思う人を」
「うん、わかった」

 悟空は目を閉じる。

「会いたい、と願って」

 その思いが奇跡を起こす。
 焔を・・・ゆがんだ思いから解放する。


「目を開けて、泉を覗いて見て下さい。何が見えますか?」
「あ・・・・・焔!焔が居る!どうして!?」
 泉の中を指差した悟空が驚いたように紫鴛に叫んだ。
「ここは本当に願った者の姿が映る場所です。その思いのまま、飛び込めば焔のもとに
 行くことが出来ますよ」
「本当!?」
「ええ、本当です。だから焔の傍に行って・・・その勘違いを正してあげてきて下さい」
「うんっ!わかった!」
 悟空にためらいは無い。
 泉の淵に足をかけると一気にその中へ飛び込んだ。








「・・・ナタク太子。今度こそ私は間違わない選択ができたでしょうか」
 残されたのは紫鴛の呟きのみ。








  



前回はギャグで今回はシリアス。
ギャップの激しい長編ですみません(苦笑)


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