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甲斐にて、勝頼が初陣を果たした頃。尾張では、秀吉が転機を迎えようとしていた。 「ったく、どいつもこいつも使えねぇっ」 どかっと座りこんだ信長の機嫌の悪さに、居並ぶ家臣たちは肝を冷やした。 ここ数年、信長の逆臣や使えないと判断した部下に対する対応は冷酷非道を極めていた。 以前はこれほどでは無かった・・・弟の信行を殺すまでは。 血の繋がった弟を殺すことで、信長は心も殺したのだ それが違うことを知り、真実を悟っていた。 信長が変わったのは、弟を殺してからでは無い。それより前 いただいてはいたが、織田家にとっては雑兵の一人と変わらない人間が消えてからだった。 彼が一人居ようが居まいが、今の織田家には損得の一つも無い。ただ何事も変わらず過ぎていく・・・ …・・かに思われた。 ただ一つ。彼の存在に意味があるとするならば。 彼が、織田信長にとって、唯一同等と認めた。そう。 であったということだろうか。 彼が傍に在ったとき、信長は横暴に怒鳴り散らしてはいても・・・口元には笑みを刻み、その瞳は晴れ渡る 空のように透き通っていた。やりたい放題の信長に振り回されて、それでも必死に後をついていく小者の姿に それを目撃した周囲の者たちは同情を覚えたものの、どこか微笑ましく見守ったものだった。 だが、彼が姿を消してからというもの、信長の口元に浮ぶ笑みは酷薄で、瞳に浮ぶ光は冷徹であった。 穏やかな温かい、光り輝いてさえ見えた空気は霧散し…心身を凍らせる重く冷たいものに変わった。 幼い頃から信長と共にあった小姓の誰一人でさえ、藤吉郎の代わりになることは出来なかった。 「次は誰だ?」 信長の静かな問いに、家臣たちは俯き答える者は無い。 今度失敗した者に、信長が命じるのは『死』であることがわかっているだけに。 尾張統一を果たした信長は、今、美濃へ手を伸ばそうとしていた。 その足がかりとなる場所、墨俣に築城をしようというのである。しかし場所は川州という悪地にあり、尾張と美濃の国境ということで、敵も築城するのを見逃すわけも無い。 家臣たちは信長の意見に到底無理であると意見したが、信長は引かなかった。 主君の命には従わなければならない。まずは佐久間がいき、あえなく失敗した。調達した材木は川の氾濫によって流され、兵は敵の攻撃を受けて大多数を失った。大損害を出してしまったのだ。 次に柴田勝家がいったが、これもまた失敗した。 次も。 失敗する度に、信長の機嫌は下降していく。 「殿」 そのとき、一番の下座より声が上がった。 「何だ、サル二号」 呼ばれた秀吉は、平伏して恐れながら・・・と進言した。 「その大役、私めにお命じ下さい」 上座に座る重臣たちは、身の程を知らぬと眉を潜めた。 たかがサル一匹に何ができようか、その名の通り尻を赤くし尻尾を巻いて逃げ帰るのがおちであろうと。 だが、顔を上げた秀吉を見た信長は・・・笑った。秀吉の顔に自信を見出したからだ。 「・・・良いだろう!てめぇに命じる!墨俣に城を築いてこいっ!」 「はっ!ありがたき幸せっ!!」 「小一郎っ!出世だ!出世するぞ!」 叫んで帰ってきた秀吉を、奥からすらりとした若者が迎え入れた。 「あ、お帰りなさい。秀吉兄さん」 穏やかな笑みを浮かべた秀吉の…正確には藤吉郎の…弟である小一郎だった。 「すぐに蜂須賀に使いを出してくれ。殿に墨俣築城のご下命をいただいた。・・・これを成功させれば俺は一挙に一城の主だ。城持ちだ!大出世だぞっ!」 興奮する兄に、小一郎はそれは良かったですねぇと穏やかに返事を返す。 秀吉はその様に肩透かしを食らったような気分になる。 「おいおい、もっとこう・・無いのかよ」 「え、十分驚いてるけど?」 はぁと秀吉は溜息をついた。 こういうところは本当の兄である藤吉郎に、全くよく似ている。 「とにかく今すぐ頼んだぞっ!」 「はい」 のんびり屋に見えても、小一郎の行動は早く取りこぼしが無い。 安心して任せられるのだ。 秀吉は、小一郎を送り出し・・・静かになった家の中で瞑目した。 (オレは・・・出世したい。しなくちゃいけないんだ) 元から抱いていた上昇志向の思いは、藤吉郎という片割れを失ってから更に強くなっていた。 居なくなった藤吉郎のぶんも・・・そんな思いを確かに抱いていた。 だが、昨年・・・信長に藤吉郎を見つけた、と聞いてから・・・別の思いも抱くようになったのだ。 信長は裏切りを絶対に許さない。どんな理由があろうとも、だ。 藤吉郎を見つけた、と秀吉に告げた信長の表情は・・・無表情であった。だが、その目に浮んでいた思いは、 秀吉を総毛だたせ、その場に釘付けにしたほどに・・・狂おしい殺意に満ちていた。 瞬時に浮んだ思いは、・・・来るべき確かな未来だった。 秀吉は震えた。 信長の殺意にでは無く 藤吉郎を失うという想像は、秀吉に想像以上の恐怖を齎した。 それは冷酷非常と恐れられる信長に抱く畏怖を凌駕した。 どうしてこれほどまでに恐れるのか、秀吉には自身でも理解できなかった。別次元の『自分』とはいえ、この世界では別々に存在する、違う命を持った個人である。戦国の世で、人一人の命はあまりに呆気ない。 底辺に生きてきた秀吉は、身に染みている。『死』には何人も例外は無いのだ。 覚悟さえ出来ていれば、誰の死さえも・・・悲しみはしても、受け入れられるはず・・・だった。 だが、藤吉郎が死ぬと思った瞬間の、世界さえも終わったような衝撃は・・・理屈では無かった。 (オレは・・・あいつを失ったら・・・どうなってしまうんだ・・・) オレは、『オレ』では居られなくなる。 何の根拠も無い、秀吉の嫌う非現実的な考えだったが・・・否定することは出来なかった。 絶対的な真実だった。 (藤吉郎を・・・殺させ、はしない。あいつを・・・誰にも、例え・・・・・・殿であろうと) 「・・・守る。オレが、守る」 誰にも、言葉にはしない。秀吉の決意だった。 そのためには、今のままの秀吉では無理なのだ。 藤吉郎を匿っても、今のままではすぐに奪われ・・・殺されてしまうだろう。 誰にも口出しさせず、手も出すことの出来ない強さと身分。それが必要だった。 墨俣築城は、その第一歩だったのだ。 |
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+あとがき+
秀吉の思いを書いてみました。
このペースでは、いつ書けることになるかわかりませんが(おい)
秀吉はいーとこ持ってく予定なんです(笑)