19.成就






 呆然と膝をついたアラゴルンは、フロドへと手を伸ばした。

 その手は剣の名手として勇名を馳せる男とは思えないほど小刻みに震え、顔には恐れが張り付いている。
 目の前の幻のような人は、己が触れた途端、儚く消えてしまうのではないか。
 そうアラゴルンに思わせても仕方ないほど、目の前のフロドの存在感は希薄だった。


―――大丈夫ですよ」


 あと少しのところで、留まり躊躇っていたアラゴルンの手を、フロドの小さな両手が優しく包みこむ。
 そこには生きているものでなければ持ち得ない、温かさがあった。
 
「アラゴルン」
 限りない愛しみをこめ、目を細めたフロドは睦言を囁くように『彼』の名を呼ぶ。
 麗しの蒼は煌煌と輝き、そこには王ではなく、野伏であった頃の彼自身を映していた。

 嗚呼――・・

 彼は・・・・この、目の前に居る人は、


「フロド・・・ッ」

 アラゴルンは、躊躇いなど打ち捨ててフロドをその胸に掻き抱いた。
 ふわりと揺れる髪。
 失われ、生あるうちには二度と叶うことの無いと思った願いがそこにある。
 鼻腔をくすぐる懐かしくも、芳しい匂い。
 己が誓いを捧げた唯一の、何よりも、大切な者。

「フロド・・・フロドッフロド・・・・―――ッ」

 彼を抱き、名を叫びながら・・・・・・・・・・・・・アラゴルンは涙を落とした。
 ただ、恋うる男がそこに居た。


























 嵐は遠くに去り、名残の雫が大地に可愛らしい楽を奏でさせる。
 オスギリアスの地は生きとし生ける者たちの、安堵の溜息が満ち、穏やかな空気に包まれていた。



 しばらく、アラゴルンに抱かれるままに大人しくしていたフロドがくすりと笑った。

「・・・・・?」
―――良かった。あなたが私のことを忘れないでいてくれて、嬉しいです」
「忘れるなど・・・ッ!」
 目を剥くアラゴルンに、フロドは穏やかな微笑を浮かべる。
「ええ、あなたは一瞬の躊躇もなく私の名を呼んでくださいました。――だから、ここに在れる」
「フロド・・・」
 理解できない言葉に戸惑い、フロドを見つめるアラゴルンに、再びくすりと笑う。
「少ぅし、お年を召されましたね」
「・・・・君は変わりないようだ」
 類稀なるホビットは、最後に見た時のまま――― いや、きっと彼が幸せであった時の姿のまま、幸福
 そうに、輝いていた。そこに年輪の翳りは無い。
「あちらの時間の流は無いに等しく、それに・・・・」
「それに?」
「私には、夕星姫の恩寵が与えられていますから」
 フロドは、そっと胸元に輝く白い宝石を握り締めた。
 ナズグルの剣を受けたフロドを救うために、アルウェンは自分に与えられた恩寵をフロドへと与えた。
 この宝石も、なくしてしまった指輪の代わりに、フロドを支えてくれるようにと姫がくれたもの。
「だから、安心してください。アルウェン様は永久の命のまま常世を彷徨われることは無いでしょう。死すときも
 あなたと共に逝かれるはずです」
「フロド・・・君は、こんな時にまで他人のことを思いやるのか。どうして・・・」
「どうして?簡単なことですよ、アラゴルン。私は、皆のことが大好きなんです」
 事もなげに言い、フロドは笑う。


―――私は?」


 アラゴルンが自身でも思いがけず口を突いて出た問いかけに、フロドが目を瞠った。
「あ、いや・・・」
 何と子供じみた問いかけかと、アラゴルンは目をそらす。
 
「アラゴルン――・・・私は、嫌いな人との約束を果たすために、彼の国からわざわざ遠く離れた常世まで
 やって来たりはしません。これは私にとって、・・・自身を失うかもしれない賭けだったのですから」
「どういうことだ?」
「今、あなたの目の前にある私の姿は・・・実を言えば、現のものではありません」
「!?」
「私の本体は、遠く彼の地で眠りについているはずです」
「フロド・・」
「ああ、どうかそんな顔をしないで下さい。あなたを心配させたかったわけでは無いんです。私の眠りについた
 体は、ガンダルフとエルフの方々が見守っていてくださるはずです。ただ、私はあなたとの約束を守るために
 どうしてもこちらに来なければならなかった。でも一度海を渡った体は二度と戻ってくることは出来ません」
「フロド」
「ガンダルフに無理なお願いをしました。・・・ガンダルフも、この地で私が私としての姿としてあり得ることが
 できるかどうか、わからないと。でも、例えどのような姿になろうとも、私はあなたに会いたいと願ったのです。
 アラゴルン・・・あなたに」
 執務室に沈黙が落ち、濃密な空気が満ちた。
―――そして、君はその無謀な賭けに勝ったのだな。私は君の姿を見、触れることができる」
 アラゴルンは記憶にあるままの、優しい手触りをかえすフロドの癖のある髪をなで、口づける。
――君を私の元に導いてくれた全てのものに感謝を捧げる・・・フロド」
 髪から額に降りた口づけは、瞼を過ぎり、頬を伝い―――唇に触れた。
 頬を僅かに染めたフロドは、それでも微笑をかえしてくれる。

「どうか、許して欲しい。あの時、紡ぐことの出来なかった言葉を告げることを」
 アラゴルンは腕の中のフロドを見つめ、フロドもアラゴルンを見つめかえした。
 





















「どうか、私の傍に居てくれ。君を・・・―――― フロド、私は君を愛している」


 















 
 青い宝石から、とめどなく雫が零れ落ちていた。











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