10.戴冠前夜






 戴冠前夜

 アラゴルンの戴冠式が翌日に迫った夜。
 フロドは与えられた部屋の窓から空を見上げていた。


 旅の間に負った傷もだいぶ癒え、サムたちとシャイアへ帰る日を相談していたのだが、アラゴルンから
 是非とも戴冠式に出席してほしいと言われていたこともあり、結局、それが終わってから帰ることとなっていた。
 ゴンドールからシャイアは遠い。ホビットの足ではなおさらだ。
 他の旅の仲間がこれからどうするのかフロドは聞いていなかったが、たぶん二度とこうして集まることは
 出来ないように思われた。
 それがとても寂しく、シャイアへ・・・故郷へ帰ることのできる喜びだけにひたっていることは出来ないでいた。


 (・・シャイアへ帰りたい・・でも、離れるのは・・苦しい・・・)


 フロドの宝石のような瞳から涙がこぼれた。


「・・・フロド」


 静かな声が背後から掛けられた。
 それにフロドは体をふるわせ、まぶたを閉じると振り返った。


「アラゴルン」
「・・・こんな遅くに訪ねてすまない」
「いいえ、まだ起きてましたから。アラゴルンこそ・・・良いのですか?明日の主役がこんなところに居て」
「大丈夫だろう。大変なのは私じゃなく周りの人間だろうからな」
 軽く言った王に、フロドは微笑を浮かべると部屋にあった椅子をすすめた。フロドは窓際に置かれていた
 ベッドに座る。
 しばらく二人の間には沈黙が横たわり、耐えられなくなったのはフロドのほうだった。
「・・・あの、アラゴルン、何かご用事が?」
「いや・・・」
 少し逡巡したアラゴルンは、ためらいがちに切り出した。
「サムに聞いたのだが・・・戴冠式が済めば君たち4人はシャイアへ帰ると」
「・・・はい」
「・・・君はこんなことを言うと怒るかもしれないが、四人だけで大丈夫か?」
「怒りませんよ、アラゴルン。何しろ僕たちだけじゃ道もわかりませんし、ガンダルフが送ってくれることに
 なっています」
「そうか・・・それなら安心だな」
 再び、沈黙が落ちる。
「・・・その、フロド」
「はい」
 アラゴルンは手を組んだり解いたりしながら落ち着かない様子であるが、フロドもアラゴルンの顔を直視
 できず伏せがちである。
「・・・私は、君に・・・」
「・・・はい」
―――― ずっと・・・ここに」
 『居てほしい』と続けようとしたアラゴルンの言葉は、小さな手にふさがれた。
 夜気に触れて冷えた手が、アラゴルンの唇にそっと添えられていた。
「・・・どうか、その言葉を・・・形にしないで下さい」
 震える唇に気丈に笑みを乗せながら、フロドの瞳は潤んでいた。
「フロド・・・」
「アラゴルン・・・あなたの言葉は重い。形にされれば、僕は聞き入れずにはいられないでしょう・・・けれど」
 フロドの手が離れていく。
「・・・帰られなければならないのです。サムやメリー、ピピンと・・・ここは僕たちの居るべき場所では・・・
 ・・・ありません」
 ホビットは4人しかない。
「・・・僕たちが生きる場所は、シャイア、だから・・・」
「フロド・・・」
「・・・ありがとうございます、アラゴルン・・・あなたのその気持ちだけで、僕は・・・十分です・・・」
 フロドの頬に一筋の光が流れた。
「・・・フロド・・・私には何も言わせてもらえないのか?」
 何か請うような表情で、アラゴルンはフロドを見つめる。
 夜の闇の中、月と星の光のみが、二人を映し出していた。

「アラゴルンは・・・もう『さすらい人』ではありません。皆の王様です。あなたが僕たちのためにしてくれたことは
 忘れません・・・でも、どうか、もう僕たちのことは記憶の彼方にしまっておいて下さい」
「っそんなことが!君たちは・・・英雄なのだぞ」
「違います!・・・違い、ます・・」
 滅多に無く語気強く否定したフロドは、眉をしかめ首を振る。
「・・・僕は英雄などでは、ありません。ただ、僕は・・・指輪を運んだだけです・・・最後は、僕は・・・
 指輪の魔力に屈してしまった・・・英雄などではありません」
「フロド・・・」
 アラゴルンはフロドの強く握り締められた手に触れ・・・その瞳をのぞきこんだ。
 そこにあったのは、出会う以前に魅入られていた美しい青。どこまでも澄み、深い色を宿す。

「フロド・・フロド=バギンズ」

「・・・・・。・・・・・」
「私は、君のことを誇らしく思う・・・・この誰よりも小さき手が・・・」
 アラゴルンは失われたフロドの指に口づける。
「我々、この世界に生きる全てのものを救ってくれた」
「アラゴルン・・・」
「・・・己を責めるな。他の誰も、指輪の魔力に勝つことは出来なかったのだから」
 フロドの手が小刻みに震える。
「アラゴルン・・・あなたは、どうして・・・笑って・・お別れが言いたかったのに・・・」
 フロドの目からは今まで耐えていた涙がぽろぽろと零れ落ちていた。
「これは、別れなどでは無い。ただ、旅立つだけだ。会おうと思えばいつでも会えるでは無いか」
「・・・・・っ」
「・・・再会を・・・私の口にするただ一つの願いだ。フロド・・・再会を、誓ってくれるか?」
 跪いてフロドの手を握り、アラゴルンは言葉を待った。
「・・・・アラゴルン、あなたの言葉を僕は拒否することなんて出来ません・・・・・・・誓います・・・きっと・・・」

 アラゴルンはフロドの言葉を聞くと立ち上がり、額に口づけ・・・零れ落ちる涙を唇ですくい、フロドの小さな
 唇にそっと触れた。

「フロド」
「アラゴルン・・・」


 月と星。夜の闇だけが知る。彼らの誓いだった。








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