Never Ending Story 13.旅立ち
ガンダルフに忠告されていたものの、フロドを襲った発作は予想外に酷いものだった。
幸いにも、不在にしていたサムに知れることは無かったが、フロドは立ち上がることも苦しくベッドに
臥していた。ナズグルによって傷を負った左肩から激痛が走り、体全体を疲労させる。
自分のものとは思えない重たい体と酷い眩暈、吐き気が襲い、フロドは自分がいよいよ最後の時がきたとさえ思った。
だが、発作はしばらくしておさまり、日常の生活に戻ることができた。
しかし、フロドの体は旅に出る前とは違い、疲れやすく、激しい運動もあまり出来なくなっていた。
フロドは、穏やかなホビットの里でビルボの残した赤表紙本の続きを記しながら静かに過ごす。
サムもフロドの体の調子があまり良くないことを薄々感づいているのか、丹精をこめて育てた花々を部屋の
窓から眺められるところに置き、妻のローズとともに何くれとなくフロドに尽くした。
このまま穏やかな生活が続くと思われた。
――― それが仮初であることに気づいていたのは、僅かな者のみだった。
「ガンダルフ?」
ある日、横になっていたフロドが目を覚ますと、ガンダルフが傍の椅子に座りパイプをふかしていた。
「やぁ、フロド。お目覚めか」
「起こしてくれれば良かったのに」
「ほっほっほっ……気持ちよさそうに眠っておったのでな」
フロドははにかむと、辺りを見回した。日のあたり具合からすると昼は過ぎていないようだ。
サムはどこへ行ったのだろうか・・・。
「サムは昼の食料をと出て行ったぞ」
「そうですか……」
きっとガンダルフが来たため、夕食も腕を振るおうと思ったに違いない。
「それで、ガンダルフ。今日はいったい?」
「ふむ……」
パイプを置いたガンダルフは、フロドに向き合った。
「お帰り、サム」
腕に抱えるほどの荷物を持ったサムが丘を登ってくるのを見つけたフロドは、扉を開いて迎え入れた。
「フロド様。すまねぇです。……あれ、ガンダルフは?」
「帰ったよ。用事があるからって。サムの手料理はまた次回に楽しませてもらうからと」
「そうですか、残念ですだ。今日はせっかくのご馳走だったのに」
がっかりと肩を落とすサムに、気の毒になったフロドは提案した。
「せっかくだもの、メリーとピピンも呼んであげよう」
「そりゃぁいい考えですだ!だけど、あのお二人が来るとなると……これで足りるかな……」
真剣に心配しているサムに、フロドは笑い……そして目を細めた。
その夜は久しぶりに、丘の上の袋小路屋敷も遅くまで灯がともり、楽しげな声が溢れていた。
ビルボを隣に、馬車に揺られながら、フロドは遠くゴンドールの地を思っていた。
フロドが灰色港から船に乗り、かの地を目指すことを、旅の仲間の誰にも告げてはいなかった。
サムも、メリーもピピンも、フロドはただビルボを見送るためについてきているのだと思っているだろう。
そして、アラゴルンやレゴラス、ギムリ……彼らはフロドたちが灰色港に居ることさえ知らない。
(……アラゴルン)
フロドが旅立ったことを、彼は他人の口から聞くだろう。
「フロドや、かの地はどのように美しいところだろうねぇ」
「ええ、ビルボ。きっと素晴らしい場所ですよ」
それは信じられる。
けれど、いくら素晴らしい場所でも、そこにはガンダルフ以外の旅の仲間は誰一人として居ない。
だけど、それは仕方の無いことなのだ。
失われたものは二度と元には戻らない。フロドの体もまた、この中つ国では永らえることはない。
(アラゴルン、ごめんなさい……僕は、あなたに誓ったのに……)
フロドはもう二度とこの地に戻ることは無いだろう。
「フロド、泣いているのかい?」
「……いえ、ビルボ……ええ……」
フロドの頬に涙は流れていなかった。
しかし、心は別れの時が近づくことを、恐れ悲しんでいた。
「フロド、元気をお出し。これで終わりでは無いよ」
「ビルボ?」
「生きている限り、旅は続くのだ。……決して叶わぬ望みなどありはしない」
皺だらけの手がフロドの手を優しくたたき、なぐさめた。
「……はい、ビルボ」
彼はいつもフロドの良き師であり、父だった。
フロドは別れに涙は流さなかった。
決して叶わぬ望みなどない……だから、きっといつか……。
(さようなら…………また、会う日まで……)
「どうか、お元気で……アラゴルン」
遠く霞んでいくフロドを乗せた船の、その姿が完全に水平線の向こうに消えてもしばらくサムは港を動こうとはしなかった。
己の全てを捧げ尽くした主が、旅立っていく。サムは己の何かが、確かに失われたことを感じていた。
メリーとピピンも、そうして佇むサムに何も声を掛けることができず彼らもまたいつまでも船影を見送っていた。
そんな彼らの寂寥とした空気を打ち破る、荒々しい蹄の音が背後で響いた。
何事か、と振り向いた彼らの視線の先に居たのは、よく見知った人物であった。
「フロドはっ!?」
相当飛ばしてきたのだろう、鼻息も荒い馬から髪を振り乱して降り立ち、ホビットたちに噛み付くように
問いただした。
「王様。フロド様はもう……」
ゴンドールに居るはずの王、アラゴルンに、サムは首を横に振った。
「少しばかり遅かったですよ、王様」
アラゴルンはホビットたちの答えに、桟橋の端にたち、水平線の彼方を見る。
「――― くそっ」
足を踏み鳴らし、言葉を吐き出したアラゴルンは顔を覆い……ホビットたちを見た。
「何故、何故、フロドを行かせたのだっ」
アラゴルンの激しい口調に、ホビットたちはすぐに言葉を返せない。
とまどう視線で互いに目配せをかわし、サムが口を開いた。
「フロド様が決められたことを、止めることは出来ません」
それが出来たらどれほど良かっただろうに、と痛いほどに思ったけれど……それはサムにも、メリーにも
ピピンにも出来なかった。
もし、出来る人物が居たとしたら……彼らの前で怒りと悲しみに震える男、一人だけだっただろう。
けれど、彼は間に合わなかった。
「――― すまない、あんたらとて同じだろうに……」
アラゴルンは頭をふり、息をつく。
つらい気持ちは、勝るとも劣らない。
「いいえ、気にしないで下さい。……それより、よくここに来られましただね」
「私が教えたんだよ」
城壁の中から白い馬に乗ったレゴラスが悠然と現れた。
何を置いても駆けつけてきたと見える姿のアラゴルンに対して、レゴラスはどこまでもエルフの貴公子然と優雅な姿だった。
「フロド様は誰にも仰っていなかったはずですが……」
「フロドが何かを決意していたことは、聞かずともわかっていたからね。エルロンド卿の旅立ちにガンダルフも
共にすると聞いてピンと来たのさ」
「……」
明るいレゴラスの答えに、ちっとも気づけなかったサムがショックを受けている。
「サム、気づけなかったことを気にすることは無いよ。フロドは特に君には気づかれないようにと気を使っていた
ようだから。フロドも聡明でしっかり者だが彼の何倍も生きている私を騙すには、まだまだ足りなかったようだ」
「そ、それならどうして教えて下さらなかったんです!」
「聞かれなかったから」
あっさりと言われ、サムは絶句した。
そんなサムの肩をなぐさめるように叩いたのはアラゴルンだった。
「気にするな、サム。私も同じように言われた」
サムの目がさらに大きく見開かれる。
前々から変わり者のエルフだとは思っていたが、ここまでだったとは。
「もう少し早く言ってくれていれば、フロドを引き止められたかもしれぬのに」
「言わなかった理由はそれも、ある」
「レゴラス」
責めるような眼差しにもどこふく風でレゴラスは語る。
「君たちにはわからなかっただろうが、フロドの生命力は日増しに弱っていた。この世界にとどまっていれば、
その寿命が尽きるのも時間の問題」
「それでもっ!フロド様にもう会えんことは変わりないですだ!」
「全く違う」
あくまでも穏やかなエルフは、水平線を見る。
エルフの目にならば、まだフロドの乗った船を見ることが出来るのだろうか……。
「例え会えなくなったとしても、彼はまだ生きて、私たちと同じように呼吸している。かの地で、フロドはきっと
元気で暮らしていくことだろう。その彼の幸福を思えば別れなど何ほどのものでもない。違うかい?」
レゴラスの問い。沈黙が彼らの肯定だった。
「それに」
「それに?」
「――― この世に叶わぬ望みなど無いのだよ」
アラゴルンはレゴラスの言葉を背に、海を見ていた。
かの地に続く、ただ一つの港。
「……戻るぞ、レゴラス」
「御意に」
おどけた仕草で頷いたレゴラスがアラゴルンの後ろに続く。
「……王様!」
そのアラゴルンを、サムが呼び止めた。
「何だね、サム」
「あの……フロド様から、あなたへ……もし、会うことがあればと伝言を」
「!」
アラゴルンはサムに詰め寄ると、その肩を掴んだ。
「フロドは、何と?」
サムは一回深呼吸し、告げた。
「『誓いは果たします。どうぞお元気で』―――― と」
「そう、か……そうか……ありがとう、サム。感謝する」
「いえ……」
「私には?」
「え?」
「あ?」
横から入り込んだレゴラスの声に、サムとアラゴルンが同時に口を開ける。
「フロドからの伝言、私には無かったの?」
「……。……」
「サムワイズ殿?」
「……。……(汗)」
フ、フロド様~~っ!どうして俺を置いていかれたんですか――ッ!!
笑顔で黒いオーラを発するエルフに詰め寄られながら、サムは旅立っていたフロドに助けを求めた。
「……(すまん、サム)」
その姿に申し訳なく思ったアラゴルンは心の中で深く深く頭を下げた。
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