ローマの休日 2
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香港からイタリアまで飛行機で約10時間。
秋生もこんなに長い間飛行機に乗ったことは無かったので、かなりくたびれることを覚悟していたのだが、いざ香港空港に行ってみれば座席クラスがエコノミーからファーストに変更されていた。明らかにビンセントが手を回したのだろうとわかるが、『いんじゃない。楽できるし』という軽いセシリアの言葉により、ありがたくファーストクラスを堪能させていただくこととなった。
座席は広いし、足は伸ばせるし、食事は出来立ての状態で運ばれてくるし。いたれり尽くせりの状態は喜ぶよりも逆に申し訳なく思うほどだ。隣のほうでセシリアは何やかやと要求していたようだが、秋生はそこまで図太くはなれない。
(到着するまで大人しく寝ておこう……)
どこでも平気で熟睡できるのは秋生の特技である。
ローマ到着は夕方、ツアー旅行のため入国カウンターに入る前に集合して点呼を取られる。
ガイドがついているので、何から何まで手配してくれてとても楽だった。ファーストクラスを利用したせいなのか、それに輪をかけるように秋生とセシリアを気にかけてくれている。香港女性にしては珍しいほどに腰が低い。……ビンセントに会社経由で圧力をかけられているのだろうとセシリアはあたりをつけた。その隣で秋生は美人ガイドに鼻の下を伸ばしている。セシリアは平和そのものな秋生に天を仰いだ。
無事に荷物を受け取ってバスでホテルまで移動するらしい。
水なんかを買って紙幣を貨幣に交換している中、セシリアは携帯を手にしていた。
「……誰と話してたの?」
セシリアの分の水を手渡しながら秋生は尋ねた。
「当然」
ビンセントに決まっている。到着したら必ず連絡しろと口煩く言われていたのだ。
そして電話したらしたで、秋生の体調はどうだのそちらの気温はだのと細かい。
「ビンセント?」
「ご名答」
短い回答に秋生も苦笑を浮かべた。
「ちょっと心配性だよね」
「……」
今に至るまでの秋生に対しての有り得ないほどの『過保護』な扱いを受けてきておきながら、『ちょっと』とそれを表現できる秋生に呆れるのを通り越して、セシリアは感心してしまった。
「ヘンリーは先に来てるんだよね?何処に居るんだろ」
「はん、大方ローマの町で女でも口説いてるんじゃないの」
「確かに、みーんな美人だもんね!」
「……」
今度こそ、セシリアは秋生に冷たい視線を注いだ。
20時を過ぎるというのに、外は明るく夕方のように感じる。
テルミニ駅近くのホテルに到着して、セシリアと一騒動あったが(ペアなのでもちろんツインが用意されていた)部屋も他には空いてないというし、スイートにすればもちろん追加料金になる……ということで渋々納得した。
(秋生にしたらどうでも良い)
「ご飯食べに行きましょ」
「うん」
何故か早速着替えをしたセシリアは、準備万端な様子で秋生を誘った。
「やっぱりイタリアといえばパスタでしょ、パスタ!」
長時間のフライトをものともしないバイタリティ。さすがだ。
しかもいつの間にかガイドに美味しい穴場の店を聞き出していたらしい。本当に抜け目が無い。
秋生はひたすらついていくだけだ。
初のヨーロッパ。やはり街の雰囲気は日本とも香港とも違う。物珍しさのあまり、きょろきょろと視線を動かしていたら、誰かにぶつかった。
「っ ……Excuse me!」
「*****っ!***ジャポネーゼ?」
イタリア人らしき背の高い青年が何か言ったが、早口の上、秋生にはイタリア語は理解できない。
唯一最後の単語が『日本人か?』と聞かれたのがわかったくらいだ。
とりあえず。イエスと反射的に応えていた。
「*****!*****!****?」
「?????」
英語ならまだ理解できるだろうに、イタリア語でまくしたてられてはちんぷんかんぷんだ。
しかし、相手の顔には笑顔が浮かんでいて少なくとも怒られているわけでは無いらしい。
「I do not understand Italian.」
「OK!OK!」
何が。
心の中で突っ込む秋生に、イタリア青年はフレンドリーに肩を叩いてくる。全く意味不明だ。
しかも手を掴んで何処かへ連れて行こうとする。
「ちょ……っ!?」
慌てるが、体格からして一回り違う相手に秋生の抵抗など無いも同然。
スリは多いと聞いていたが、人攫いが多いとは聞いていない。
情けないがセシリアに助けを求めなければ、と思い立ったところで「ヒュッ」と空を切る音がしたと思ったら、秋生を掴んでいた男が目をまわして転がっていた。
「……何やってるのよ」
「いや……何なんだろうね?」
「ナンパなんて無視しなさいよ」
「は!?ナンパ!?」
そこで、初めて秋生は自分がナンパされていたことを知った。
「ほら、行くわよ!」
何で秋生が……とぶつぶつ呟くセシリアに逆らうこともできず、秋生は大人しく後に続いた。
「ローマについた早々ナンパされて誘拐されかかるって、本当に!」
当たりをつけていたトラットリアに到着し注文を終えた後、早速秋生はセシリアに説教された。
「いや、だってまさかナンパだなんて思わないだろ!?一応、僕は男なんだし」
「一応ね」
「……」
確かに男としては頼りないという自覚はある秋生である。
いや、周囲が頼りがいがありすぎるのでは……。
「意味がわかんない時はへらへら笑ってないで、NO!てとりあえず言っておきなさい」
「それもどうかと思うけど」
「どうもこうも無いでしょ!」
「いやわかったから、セシリア。少し落ち着いて……」
どうにも周囲から興味深そうな視線が突き刺さって仕方が無い。もしかすると旅行中に喧嘩になったカップルとでも思われているのかもしれない。
秋生にしては鋭い洞察力だった。
しかしセシリアはローマでもセシリアだった。鋭い視線で周囲を睥睨すると、人々は瞬く間に視線を逸らし、必死で知らないふりをする。黒服さえも慌てて厨房に走っていった。
そのすぐ後に注文した品がどのテーブルよりも早く運ばれてくる。
……いったいどんな客だと思われたのか。
「美味しそうね!」
その料理にころっと態度を変えたセシリアはにこにことナイフとフォークを握る。
周囲に安堵の空気が流れ、秋生もほっと胸を撫で下ろした。
「いただきます」
秋生も自分の下に運ばれてきたスカンピ・パスタを口に含む。
「「美味しい!」」
秋生とセシリアの言葉が重なった。ちなみにセシリアがオーダーしたのはアマトリチャーナ。
さすがガイドの紹介だけあって味は確かだ。しかし些か量が……日本人の秋生には多い。香港に居た頃からヘンリーによく『日本人は食が細いんだ!』と言われていたが、他の人間が多いのだ。最近はヘンリーも秋生のために量を調整してくれているらしい。
これがプリモピアットで、セカンドピアットがメインディッシュとなるらしいが……これだけでおなか一杯でデザートにいっても良い気分だ。しかしセシリアはそうはいかないだろう。そして秋生も強引に押し切られるのだ。
一時間後、秋生は破裂しそうな胃袋を抱えてホテルに戻った。
…とそれを狙ったかのように秋生の携帯電話が鳴り響いた。すっかりその存在を忘れていた秋生はびくぅっと身を震わせあたふたと体を触りだす。胸ポケットから出てきたそれを開くと『ビンセント』の表示が。
「も、もしもしっ」
『ミスター・工藤?』
「はー、ビンセント。ちょっとびっくりしちゃった」
『申し訳ございません』
「いやいやビンセントが謝ることじゃないし。どうしたの?」
『はい。こちらの仕事が片付きましたので、明日にローマに到着する飛行機に乗れそうです』
「あ、そうなんだ」
廖さんの顔がちらりと秋生の脳裏に過ぎったが、まぁ片付けたというのならば大丈夫なのだろう。
そのあたり秋生は楽天的である。
「じゃ、気をつけて」
『はい、ありがとうございます。ミスター工藤も何かご不便はございませんか?』
「んー、今のところは大丈夫かな。食事も美味しいし」
『それはよろしかった。ではまた明日に』
「うん。おやすみ」
こちらはおやすみでもあちらは時差の関係で午前中だろう。
秋生が通話を切ると、セシリアが肩をすくめて首を振っていた。
「ホントにとことん心配性な男ね」
秋生限定で。
「ちょっとね。……ま、でも今までさんざん面倒かけてきたし、無理も無いかな」
心配するなと言っても心配せずにはいられない実績を秋生は積み上げてきた。
「そうね。精々ローマでは何事もなくいきたいものだわ」
「頑張ります……」
無いとは言わない秋生だった。
長時間の飛行で、疲労していた秋生はぐっすりと眠りこんだ。
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