就職活動開始! 1


 香港はつい最近までイギリス領であり、そして現在は中国ということになっている。
 しかし本土とは違い、外資系の会社も多く、好景気の影響も受けて中国本土の会社も進出してきている。
 学生にとっては就職活動のし易い場所であった。



「ハロー、秋生」
「やぁ、リチャード」
 構内を歩いていた秋生はイギリスからの留学生であるリチャードに声を掛けられた。
 同じ留学生同士ということで仲良くしている。
 白人によくある偏見も無く、中国骨董や日本の骨董にも興味を持っている彼はよく秋生を質問攻めにしてくれる。先日も信楽焼の狸について『この狸は何故壷を持っているのか?』と聞かれ、答えに窮した。
「秋生はもう就職は決まったのかい?」
「就職?……まだこれからだけど」
 卒業までにはあと半年以上ある。確かに早い学生は内定を貰っていたりするらしいが。元来、秋生はのんびりした気質で、差し迫った事情も無いのでゆっくり決めればよいかと思っていたりする。
「リチャードは?決まったの?」
「僕は卒業したら本国に戻ることになっている。そこで父の稼業を継ぐ」
 リチャードの家のことを聞くのは初めてだったので、「へー」と思うだけだ。
 しかし。
「もし就職先を決めていないんだったら、秋生も一緒に来ないか?」
「……は?」
「僕の父は一応貴族でね。貿易会社をしているんだが、欧米相手だけでなく日本や中国、東南アジアも相手に取引を広げよう考えているだ。そうすると語学に堪能が人間が必要でね。秋生は英語はもちろん、広東語も北京語も話せるだろう?その上、人当たりも良いし、貴重な人材だと思うんだ。父にも話したら是非とも会って話してみたいと言ってね」
「え!?いや……えぇっ!?」
 さすがに暢気な秋生も驚く。
「来週、父が会社の取引でシンガポールに来るらしいから香港にも立ち寄ると思う。良ければその時に会ってみてくれないか?」
「ちょ……リチャード」
 あまりに突然にして、強引すぎる。
「堅苦しく考えてくれなくても将来の選択肢の一つだと思ってくれれば良いし、他に考えている会社が無いようだったら検討してみてくれないか?僕も秋生と一緒に働けるなら嬉しいから」
 それじゃ、と言うだけ言ってリチャードは講義に向かう。
 残された秋生は否とも応とも言うことを許されず、呆然と立っていた。



「馬っ鹿ね~っ!」
 構内で会ったセシリアにリチャードのことを話すといつものように罵られた。
「何でそこでちゃんと断らないの」
「え、だって・・・せっかく言ってくれるのに、て思って……突然だったし」
 日本人は押しに弱いのである。
「突然でも何でも、秋生がイギリスなんか行っちゃうって聞いたらそれこそビンセントが黙っちゃいないわよ」
 せっかく東海公司への就職を秋生が考え初めて安心してるというのに、横から予想外の対抗馬が現れたとあっては、青龍のことだ。裏でこっそりと手を回しかねない。最悪、東海公司の支社をイギリスに作りかねないだろう。……想像できて嫌だ。
「ん~……でもそろそろ決めなくちゃいけないんだろうし。僕の特技なんて本当にリチャードが言ったように黄龍のおかげで言葉に苦労しないってところだもんね。それを生かせる仕事についたほうが良いのかもって思ったりもするんだよ」
「ちょっと……」
 何やら乗り気になっている秋生にセシリアは焦る。
「本気?」
「うんっ!ま、選択肢の一つって言ってたし。会うだけ会って話してみるのも良いかな」
 お気楽な秋生の言葉にセシリアは天を仰ぐ。
 ビンセント=青龍の機嫌は確実に降下することだろう。
 出来れば、バレませんように・・・と密かに祈った。








「初めまして、ミスター・工藤。リチャードの父のアルバート・ガイ・グレヴィルです」
 シャングリラホテルのロビーで待ち合わせをしていたリチャードの父アルバートは、貴族の名に違わぬ紳士な風情で待っていた。
「初めまして、工藤秋生です」
 握手をかわして、三人は腰を下ろした。
 普通の日本人ならば貴族と言われれば緊張の一つもするのだろうが、普通と言うには秋生は色々と体験し過ぎていた。そもそも彼は古代中国においては『王』であった人間である。気分的には、友人のお父さんに紹介してもらう、というのが一番近かったかもしれない。
「リチャードから色々話を聞かせて貰っているよ。会うことが出来て良かった」
「こちらこそ。どんな話を聞いているのか心配ですが」
「語学の授業ではお世話になったそうだ。工藤君は語学に堪能なのだね」
「堪能というか、それだけが特技です」
 裏技的でもあるので、便利だとは思うが自慢にはならない。
「いやいや、日本人は謙遜が美徳とは言うが立派なものだよ。我々欧米の人間には東洋の言葉は構成が違うのでなかなか習得が難しい」
「僕たちが英語や欧米の言語が難しいと思うこともありますからお互い様ですよ」
「工藤君は実に美しいクィーンズイングリッシュを話すようだが」
 秋生は照れ笑いをする。
「父が仕事で英語を使うことが多いので、僕にも将来の役に立てばと教育してくれました」
 母が亡くなり、仕事も子育ても両立するのは大変だっただろう。
 反抗期らしい反抗期も無かったのんびりした性格の秋生だったから苦労は少なかっただろうが、それでも色々な可能性を与えてくれた父親には感謝している。
 そんな思いを秋生から感じ取ったのかわからないが、アルバートは目元を和らげ口を開いた。
「リチャードから聞いていると思うが、事業をアジア圏に広げようと思っていてね。リチャードを香港に留学させたのも、その計画ゆえなのだ。文化が変われば、ビジネスの様式も変わってくる。英語で取引も可能だが、細かい意思疎通はやはり現地の言語が良い。そういうスタッフが居るということが互いの信用にも繋がるだろう」
 確かに西洋と東洋の文化の違いというのは大きい。最もだと秋生も頷く。
「そこで工藤君にも、是非ともわが社に来て貰いたいと思っているのだが、どうかね?」
「……え」
「リチャードから、工藤君の話はよく聞いていたよ。語学力も問題が無い、冷静沈着で良いパートナーになってくれるだろうと。我が息子ながら、時に彼は熱くなり過ぎるところがあるのでね」
 冷静沈着?良いパートナー?
 秋生の頭にハテナマークが連発する。
「リチャード……」
 どういうことなのか、とリチャードを見れば大丈夫だ!とジェスチャーをしてくる。
 何が大丈夫なのか……少し思い込みが激しいところがあるのが玉に瑕だ。
「えーと、ロード・アルバート。はっきりとリチャードに言わなかった僕も悪いんですが、出来れば就職はこの香港か日本でと考えています。大学を卒業してもいない僕などに声を掛けていただいたのはあり難いと思いますが……」
「どこか考えているところでも?それともすでに決まっているのかい?」
「決まっているところはありません。でも就職したいと思っているところはあります……僕の実力では無理かもしれないですが受けるだけ受けてみようと思っています」
「どこの会社かね?」
「ご存知かわかりませんが、東海公司という会社です」
 アルバートが頷いた。
「もちろん。香港ではトップ企業だ。近年成長目覚しい、将来性もある会社だ」
「はい。体験就職させてもらったこともあるんですが、良い会社です」
 身内を褒められたようで、秋生は素直に喜んだ。
「しかしまだ決まったわけでは無いだろう」
「はい」
「では、是非ともうちも考えておいてくれたまえ」
 秋生は困惑した。未だ卒業もしていない、しかもたいした成績でも無い秋生を何故ここまで熱心に勧誘してくれるのだろうか。
「ロード・アルバート。リチャードに何と聞かれているのか知りませんが、僕はそこまで期待していただくほど優秀な人間では無いですよ」
 至って『平凡』。それが周囲のだいたいの秋生の評価である。
「ビジネスでは学校の成績など関係無い。これでも私は人を見る目はあるほうだよ」
「はぁ……ありがとうございます」
 社会的にも認められた人間にここまで言われれば普通の若者なら感銘を受けるところだが、良くも悪くも秋生はマイペースだった。そして香港に来て、周囲の……特にビンセントの影響もあって拍車がかかっている。
「ビジネスの話はこのくらいにして、この後工藤君は何か約束があるかね?」
「いえ、特には」
 このままマンションに帰るか、ビンセントの屋敷に戻るか。
「では食事に誘っても?」
「親子水いらずの邪魔にならなければ」
「秋生なら大歓迎さ」
 リチャードの言葉にアルバートも鷹揚に頷いている。
 断れる場面では無いだろう。
「では、お言葉に甘えて……」
 この際美味しいものを食べさえてもらおう……と考えている秋生は、大物に違い無かった。





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