憂愁のセレナーデ 1


その存在は 僕には重すぎた







 中環に、どっしりと居を構える東海公司本社ビル。
 この場所に本社を置いて、年数は然程経過してはいないが、すっかりと景観になじみ、存在しなかった 以前など想像できないまでになっている。
 その最上階、社長室では社長ビンセント=青が書類に厳しい視線を注いでいた。
 しかし、それは別段変わった光景といういわけでは無い。
 ビンセント=青、彼は不要な時にまでへらへらと浮かべることが出来るような安っぽい笑顔は持ち合わせて いないのだ。

「本日のご予定は……」
 秘書の廖の言葉に、ビンセントは書類から目を上げる。
「予定?確か午後からは何も入っていなかったはずだが?」
 僅かに不快げに眉が寄る。これほどに感情が表れるビンセントも珍しい。
「はい。以上で本日の予定は全て終りです」
「……廖」
 微笑を浮かべた秘書に、ビンセントが咎めるような視線を向ける。
「いえ」
 いつになく熱心に仕事をこなしているビンセントの姿の背景にあるものが想像できて、廖としては ほっとした気分を味わっていた。
 この方にも、人間らしい部分が備わっているのだと。
「どうぞ、ごゆっくりお過ごし下さい」
「……ああ」
 見透かされているような廖に苦笑し、ビンセントは窓の外へ視線を向けた。
 ――― と。

「!?」
 ビンセントが息を呑み、急に立ち上がる。
「社長?」
「廖。すまないが、後を頼む」
「は、はい」
 何が起こったのか、廖には全くわからなかったが、ビンセントは片付けも早々に部屋を早足で出て行った。










「セシリア、これなんか君に似合いそうだけど」
「どれ?」
 セシリアの隣に立つのは秋生・・・では無い。
 最近セシリアに急接近中の香港大学の同輩である。甘いマスクに女性慣れしている態度、男としては 中の上、とセシリアは判定している。
 まぁ、言い寄られて悪い気分にはならない男ではある。
「この赤いピアス。君、赤色似合うから」
「へぇ・・そうねぇ」
 露店で売られているものだ。質もたかが知れているが、悪いものでは無い。
 いや、むしろこんな店には不似合いに上質な一品だった。
「綺麗ね」
「プレゼントさせてくれよ、今日の記念に」
 男は笑顔を浮かべる。
 こうしてきっと落とされた女はたくさん居るのだろう……同じく笑い返しながらもセシリアは冷静に頭の中で 損得を計算している。
 くれるというのだ、貰っておいても損は無い。
「本当?嬉しいわ」
 秋生が見れば、飛んで逃げそうな笑顔を浮かべてセシリアはまんまとピアスをゲットした。
「これから食事を一緒にどうかな?近くの……」
「待って」
 男がしゃべるのを片手で遮ったセシリアは瞬間に感じた違和感にとまどう。

 (え……)

「セシリア?」
「ごめんなさい。ちょっと用事が出来たみたい。また今度誘って頂戴♪」
「せ、セシリア!」

 あっさりと男に背を向けて、セシリアは軽快に走り去った。


 





 セシリアが尋常ならざるフットワークで辿りついたのは、秋生が住んでいる湾仔のマンションだった。
 セキュリティに暗証番号を打ち込んで入ろうとするセシリアは、凄い勢いで滑り込んできたロールスロイスに…… やはり、と視線を注ぐ。

「ビンセント」
「セシリア、ミスター工藤に何かあったのか!?」
「あのね・・それを確かめに今から行くところ」
 全く心配性なんだからと深い溜息を吐き出したセシリアを無視し、やってきたエレベーターに乗り込む。
 すぐに閉じてしまいそうなビンセントの様子に、慌ててセシリアも滑り込んだ。
「お前も何か感じたのか?」
「ええ」
 だが、その違和感の正体がセシリアにはわからないでいた。
 柳眉が寄る。
「気づかないのか?」
「え?」


「黄龍殿の気が――― 消えた」




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