体験就職 4


 ビンセント・青。
 香港経済界の輝ける寵児。今をときめく青年実業家。眉目秀麗、頭脳明晰、とゆくところ賞賛の輝ける 雨霰を受け続ける彼は、本日ある決意をしていた。

 『外出した先でミスター・工藤を危険な目に遭わせるとは、筆頭聖獣としてもってのほか。この上は これ以上の危険を回避するため、当分の間、社内での仕事を優先させるべきだろう』

 そして。最も被害を受けたのは秘書の廖。
 降って沸いたビンセントの『当分外出はしない』宣言により、パーティや会議をどれほどキャンセル しなければならなかったか・・・。
 ビンセントを尊敬してやまない廖だったが、ほんの少しついていくことに不安を覚えたりしのだった。





「そろそろね」
「は?」
 秘書課で書類整理の手伝いをしていた秋生は先輩秘書の突然の言葉にぽかんと口を開けた。
 東海公司に勤続10年という、香港の人間にしては珍しいほど長い勤続年数を誇る彼女の名前は シシリア・柳(らう)。若かりし頃はさぞかしもてたことだろという美貌は今も深みを増し健在だ。
 そんな彼女が席を立ち、奥へ入っていく。
 何となく、秋生もついて行った。
「ミスター・工藤。そこの棚に紅茶の缶があるから、フォートナム・メイスンを出してくれる?」
「は、はい」
 そこ?ここのことかな??
 言われた上の棚を開けると、ずらりと紅茶の缶が並んでいた。
「・・・・・。・・・・・」
 (え、えーと・・・)
 どれも似たような缶で秋生は迷った。
「一番前の左から3番目」
「・・・・・・」
 ミズ・柳がお湯を沸かし、茶器を用意しながら的確な助言を脇からかける。
 どうやら彼女はどこに何があるか完璧に記憶しているらしい・・・さすが東海公司秘書。

 (僕には無理だよなぁ・・・)

 感心するやら、呆れるやら・・・苦笑しつつ、秋生はご指名の缶を彼女に手渡した。
 いきなり席を立つので何が始まるのかと思えば、お茶の時間だったというわけだ。
 ―――だが、おかしい。

 (確か、皆勝手に珈琲とか紅茶とか入れて飲んでたよな・・・あれ?)

 そんな秋生の疑問も知らず、彼女はてきぱきと流れるような手つきで用意を整えていく。
 白磁のティーポットに、白磁のカップ。とても上品なそれは客に出すようなもので・・・

 (ああ、きっと大事なお客さんが来るんだな)

「さてと、これでよし」
 満足げに頷いた彼女は、秋生にお盆ごとそれを手渡した。
「・・・・・は?」
「そろそろだって言ったでしょう」
 にっこり笑う彼女の言葉にかぶさって、内線が鳴った。
 近くに居た秘書が受話器を取り、かしこまりました、と涼やかな声で応じている。
 その秘書の顔が秋生たちのほうを向いた。
「??」
「青社長がお茶を持ってきて欲しいそうです」
「!?」
 秋生は大きく目を見開き、ミズ・柳を穴があくほどまじまじと見つめてしまった。
 
 コンコン、とノックをしようと秋生が手をあげると、それを待たずに社長室の扉が開けられた。
「ミスター・工藤、何を・・・?」
「あ、えーと、お茶を持ってきました」
「ありがとうございます、ミスター・工藤もご一緒にいかがですか?」
「え、さすがにそれは・・・」
「ですが、カップは丁度二つ用意されていることですし」
「え・・・?」
 てっきり誰か客が居るのかと思っていた秋生は室内をきょろきょろと見渡した。
「ミスター・・・?」
「ビンセント、東海公司の秘書って・・・あらゆる意味で凄いよね・・・」
 つまり、ビンセントが秋生にそういうことを見越して、ミズ・柳はこれらを用意したということだ。
 ちょくちょく私事でビンセントのところへ顔を出していた秋生を見知っていたにしても、恐るべき 洞察力といえよう。
「そうですか?ミスター・工藤にお褒めいただけるとは身に余る光栄です」

 (別にビンセントを褒めたわけじゃないんだけどね・・・)

 秋生は乾いた笑いを漏らしつつ、せっかく用意してもらったものを無駄にするのも惜しいと、素直に
 ビンセントの招きに応じるのだった。



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