体験就職 2
秋生はビンセントの屋敷があるビクトリアピークから湾仔のマンションへ移動していた。
理由は簡単。こちらのほうが中環の会社に近いからというだけだ。
ビンセントとしては一緒に出社すればと言いたかったが、あくまで”一般人”を装いたい秋生としては
ロールスロイスで重役出勤は目立ちすぎるというものだ。
秋生は8時に東海公司に出社すると、まずは昨日通された会議室のほうへ顔を出した。
そこでそれぞれ選んだ課の責任者が迎えにきて、移動することになっている。
「えーと、君日本人の・・・そう、工藤だったよね」
会議室に入るとダニエルが声をかけてきた。第一営業部を選択していた。
「ああ、うん」
「日本人が香港で就職するなんて珍しいな。何か理由があるのか?」
「いや・・・親戚がこっちに居るし」
答えになっていないが、説明するのは難しい。
「ミスター工藤は私と一緒に秘書課を選んだんだったわよね。あたしのことはクリスって呼んで」
クリスティー・・・クリスが秋生の肩を叩いた。
「あ・・僕のことは秋生でいいよ」
「それにしても東海公司の体験就職に参加できるなんて余程優秀なんだな」
「へ?」
アレックスの言葉に秋生は首をかしげた。参加することが何故、イコール優秀となるのか。
「そうよね、私もまさか書類審査に通るとは思ってなかったわ」
クリスも同意する。
(書類審査・・・?)
秋生には初耳の事実である。
「俺は友達に羨ましがられた。結構希望者が多かったみたいだな」
運が良かったとダニエルが朗らかに笑う。
「へぇ・・・」
どうやらビンセントが裏で手をまわしていたらしい。
(仕方ない。東海公司を選んだ時点で少しくらいならしょうがいないよな・・)
秋生は諦めの吐息をついたのだった。
++++++++++
「秘書の仕事は社長と各々の重役のスケジュール調整、それに伴う雑務です」
秘書課へと続くエレベーターの中で廖がクリスと秋生に説明してくれる。
「役目がら色々な秘密を知る得る立場にありますから、口が堅いことは絶対条件です。また政治経済
などの動きには常に気をつけておいて下さい」
「ミスター・廖。私たちは具体的にどのような仕事をすることになるんですか?」
「社長付きの秘書として私の仕事を手伝っていただきます」
「青社長のっ!?」
クリスが驚きに目を見開いた。体験就職でまさかビンセントの秘書になれるとは思ってもいなかった
のだろう・・・瞳が喜びに輝いている。
そういえば、ここ数年。ビンセントは香港で結婚したい男性のトップだとセシリアに聞いた覚えが
ある。ただし、そのときは『本性知らないからよ。あたしだったらワーストトップに選ぶわ』とコメントが
添えられていた。
「廖室長」
秘書課へ戻ってきた廖の姿に金髪美人が立ち上がった。
秘書は美人なものと世間では思っているが、本当にその通りだと秋生は東海公司に来るたびに
思っていた。しかも皆、優しい。香港の女性は言っては悪いが皆、女王様気質で男なんてただの
アクセサリーだと思っている節がある。そのおかげで押しの弱い秋生などはいつも荷物持ちなぞに
借り出されている。主にセシリアだが。
「社長から、お戻りになられたら部屋のほうにと。そちらのお二人もご一緒に」
美人秘書が秋生の顔を見て笑う。
どうやらこちらにも話が通じているらしい。秋生は困ったように髪をかきあげた。
「ありがとう。では社長室のほうに行きましょう」
クリスが目に見えて緊張していた。秋生にとって社長室はなれた場所だったがまさか秘書として
出向くなんて想像もしていなかったので・・・複雑な心境だ。
「ようこそ、ミスター・工藤。ミズ・陳」
わざわざ立って出迎えたビンセントは二人へソファに掛けるように示した。
「これから六日間私の秘書として仕事を経験してもらいますが、わからないことは廖へ聞いて下さい。
彼は優秀な男ですから色々と参考になるでしょう。この体験があなた方に有意義なものになることを
望んでいます」
「ありがとうございますっ」
「早速ですが、この後商工会のほうの会議へ出席しないといけないのですが・・・ミスター・工藤。
一緒に来ていただけませんか?」
「え?」
いきなりのご指名だ。
「心配いりません。資料を持ってついてきてくださればいいだけですので。・・・廖」
「はい、準備できております」
「わかりました。頑張ります」
全てがお膳立てされている。もちろんそんなこととは露知らず秋生は秘書としての初仕事に少々
緊張し始めていたのだった。
++++++++++++++
「ミスター・工藤。そのように固くなられなくてもよろしいですよ」
「ビンセン・・・いや、社長。体験とはいえ、廖室長にまかせられたからには手は抜けませんから」
行きのロールスロイスの中で、いつものように話しかけてくるビンセントに秋生は日頃の優柔不断さ
が嘘のようにはっきりと言ってのけた。
だが、途端に悲しそうな困ったような表情を浮かべたビンセントに秋生はちょっと言い過ぎたかも
しれない、と後悔する。ビンセントばかりが秋生に甘いように見えるが実のところ、秋生もビンセント
には甘いのだ。過保護ともいえる扱いを放置していることからもそれはわかる。
「ビンセント。そんな顔しないでよ・・・僕のほうが困る」
「申し訳ございません。ミスター・工藤を困らせるつもりは・・・」
「ビンセントだって仕事に公私混同しないだろう?」
いや、思いっきりしているだろう。四聖獣がこの場に居ればそう言っただろうが、秋生にはそうは見えないらしい。
「だから僕もそれを見習って、ちゃんと仕事したいんだ。1週間だけだけどね。だからビンセントも
協力してくらないかな。・・・二人だけの時はいいから」
「わかりました。ミスター工藤の仰るように」
本当にわかっているのか、わざとなのか・・・ビンセントは横に座る秋生に頭を下げる。
これが3000年ほど前の中国なら拝跪していたところだから、玄冥が言うように全く変わっていない
ということは無いのかもしれない。多少は融通がきくようになったのかもしれない。
そんなビンセントに秋生はにっこりと笑った。
もしかすると、秋生のほうこそ全く変わっていないのかもしれない。
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