花千樹



<上>




 清洲城        

 尾張の実質の支配者、織田信秀の住まうこの城は数日前より静けさに別れを告げた。




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「吉法師様っ!お待ち下さいっ!!駄目ですって!!!」
「サルッ!!遅いぞっ!!」
 長い老化に、すっぽんぽんで駆け回る幼い子供と、それを必死で追いかける少年にしか見えない青年の姿があった。
 バタバタ。ドタドタッ。
 時折、バキィッと何かが折れる不吉な音がしているが、城内に何事かと顔を見せ慌てる者は居無い。
 この騒動が始まったのは、思い出すこと七日前。
 二日で城内の者たちは驚くよりは諦め、被害が自分にまで及ばないように嵐がじっと通りすぎるのを耐え忍ぶことを学んだ。すでに日常茶飯事。

「そんなお姿では風邪をひきますよっ!!」
「なんじゃくなお前とはちがうっ!悔しかったら追いついてみろっ!!」
「くやしいって何ですかっ悔しいって!!・・・吉法師様っ!!」
 廊下の急カーブを見事に曲がりきった吉法師を、ここで振り切られてはならぬっとばかりに気合を入れた青年は、同じく曲がりきったところで・・・自分に向かって跳ね返ってきた吉法師を慌てて受け止めた。
「っ吉法師さま・・・っ!?」


「お、何だ。吉法師。また日吉に追いかけられていたのか?」


「父上っ!」
「信秀さまっ!?」
 目の前には吉法師の父親、つまりはこの城の主である信秀が立っていた。
          吉法師はどうやら父親にぶつかり、跳ね返されたらしい。
「も、申し訳ございませんっ!!」
 慌てて日吉は謝った。
「何故謝る?悪いのは吉法師であろう?」
「おれは悪くないっ父上が立っているのが悪いっ!」
 息子の言葉に、にやりと笑った信秀は、『今のうちだぞ』と日吉を目で促した。
「無事にイノシシを捕獲できたでな」
「あ・・・」
 ほれ、と日吉の腕の中の吉法師を信秀が指差していた。
「は、はいっ!さっ、吉法師様っ!服を着ていただきますよっ!」
「ちっ」
 抱きとめられた状態ではさすがに逃げることは出来ない。悔しそうに舌打ちした吉法師は、日吉が持っていた服に大人しく腕を通した。
「ありがとうございました、信秀様。助かりました」
「なーに、手を煩わせてすまぬな」
「いえっそんなっ!!」
 とんでもないっ!!とぶるぶる頭を振るわせた日吉は平伏する。農民上がりの日吉にとって信秀はまさに雲上の人。こうして面と向かって口をきくのさえ、本来ならば許されないことだ。畏れ多い。
「そう固くなるな」
「日吉っ!」
 憮然とした表情で表情で父親と日吉のやりとりを見ていた吉法師が割り込んだ。
 己が蚊帳の外に置かれたことも気に入らなかったのだろうが、それ以上に・・・
「日吉。ウリ坊が喚いておる。支度をしてやると良い。腹でも空いたのだろ」
「空いてないっ!」
 息子をイノシシ扱いした信秀は、笑い声をたてて去っていった。



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 尾張の小村中村。その村の中でも父親を早くに亡くし、母親しか働き手の無い貧農の育ちであった日吉が、この尾張の後継者となる吉法師の世話役に大抜擢されたのは、ある秋のことだった。
 近くの山へ狩りに来ていた信秀一考に案内役として日吉が命じられたことが縁だった。何か無礼でもあれば、即刻命が無い・・・という可能性もあり殺されてもさして誰も惜しいとは思われない日吉が選ばれたのだ。
 日吉の家は貧しく、おかげで育ちは悪かったが・・・人の感情を読み、先回りするのは上手かった。機転が利くと言えば良いが、人の顔色を見ながら生きて身についた習性のようなものだ。
 村長の後ろで雑用を言いつけられながら、犬と一緒に獲物を追いかけたりして・・・信秀どころかその共の人間たちと言葉も交わすことが無かった日吉だ。後日、城への呼び出しを受けたときには、いったいどんな粗相をやらかしたのか血の気が引いた。
 号泣する母や心配げな弟妹たちに見送られ、半ば覚悟して信秀の前に平伏した日吉に掛けられた言葉は『猪を頼む』、だった。
 は?と思わず問い返してしまった日吉に信秀は『猪の名は吉法師と言う』と笑いながら告げたのだ。
 衝撃の連続で、すぐには結びつかなかった吉法師と猪・・・だが、その名が信秀の嫡子のものであることをすぐに思い出した。

「そんなっとんでもありませんっ!!俺に、若君様のお世話など・・っ」
「勘違いするな」
「・・・・・・・」
「頼んでいるのではない。すでに決定したことだ」
「・・・・・・・」
 唖然、呆然。
 日吉には拒否権は存在しなかった。
「今日からすぐにでも頼んだぞ。お前の部屋も城内に用意した。わからぬことは、この一益に聞くが良い」
「・・・・・・・」
 驚くべき速さで動く事態に頭はついていけないまま、承りましたと日吉の口は動いていた。





            ル、・・・サルっ!!」




「はっはい!」
 しばし回想にひたっていた日吉は、吉法師の呼びかけに我に返った。
「いつまで抱いているつもりだっ!」
「あ、すいません」
 知らず力を入れていた腕を僅かに緩めたが完全には解かない。せっかく捕まえたというのに逃げられては、せっかくの苦労が水の泡。
「駄目ですよ、吉法師様。これから勉強のお時間だと伺っています」
「忘れた」
「では、思い出して下さい。というか、そういう予定です」
「・・・・・・・」
「さ、参りましょう」
 問答無用と日吉は歩き出す。
 これまで散々、城の人間を恐怖に陥れてきた吉法師に対して、かなりの恐いもの知らずと言えよう。
 だが、日吉は世話役に任じられた一日目にして、余計な遠慮や恭順をしていてはその役目を果たせないことを悟ったのだ。無礼だ何だと罵られようと、これが日吉に与えられた仕事ならば、全うするしかない。
 そんな日吉の腕の中で、吉法師は頬を赤く染めていた。










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もう、四年ぐらい前にオフで出したコピー本より再録。
発見して懐かしかったので、UPしてみました。