38.火の鳥 (十二国記)
長らく続いた女王の御世。失政続きの慶は国ばかりでなく、民の心もまた病んでいた。 一部の仙により王宮は牛耳られ、多くの民は希望さえ抱くことを諦め、貧しい暮らしの中で悲しく 死んでいった。慶の国に広く蔓延した停滞した空気を払拭するには、荒療治が必要不可欠であった。 そして、再び女王が立つ。 『赤子』と号された女王は未熟さを噛み締めつつも、慶と共に歩み始めた。 その倭での意味が示すように、何も知らない赤ん坊が育っていくように。 「主上、裁可が済んだ書類を戴いて参りますが・・こちらですか?」 「ああ。私がわかるようなものについては、処理しておいた。こちらの分は浩瀚と相談しようと思って」 「左様でございますか」 王の言葉に浩瀚は嬉しそうな微笑を浮かべた。 「ん?どうした?何か不備があったか?」 「いいえ、全く。臣として、主上という王を戴けたことが誇らしく嬉しく思いましたゆえ」 「・・・何だ、それは。気味が悪いな。私は褒められなれていないんだ。もっとわかりやすく言ってくれ」 男装の女王は言葉まで雄雄しい。また、それが不思議と似合っていた。 「慶も徐々に豊かになっております。民の顔には笑顔が広がり、己の国に誇りを持つようになっております。 慶には王が必要でした。それが他の誰でもなく、主上であったことを私は本当に誇らしく思っております」 「それは違うぞ、浩瀚。慶が豊かになったのは私のせいでは無い。皆がそうあるように努力したからだ。私は ただ何もわからないまま右往左往していたにすぎない」 「左様でございますか」 「うん」 この王は知らない。百を数えようとする御世にどれほど慶の民が感謝しているか、喜んでいるか。 また、女王であるというだけで失望したことをどれほど悔やんでいることか。 彼等は心から女王を尊敬し、愛していた。彼らだけの慶の女王。時節、市井に降りるという噂を信じて せめて一目なりと尊顔を拝することが出来ないかと、夢を抱く者の多いこと。 初勅は慶の全土に行き渡ろうとしている。 彼等は自身に誇りを持ち、不正を許さぬ鋭い目を持つ。けれど、厳しいだけではなく、ちゃんと他者に対する 思いやりも持ち合わせている。 浩瀚は改めて、『王』の持つ意味を噛み締めていた。 王の色は国の色であり、民の色。 「主上、そろそろご自分を褒めて差し上げてもよろしいのでは?」 浩瀚の言葉に赤い髪を持つ女王は苦笑した。 「この程度で自分を褒めていたのでは奏や雁に笑われる。私はまだまだあの方々から見れば卵の殻を割った 雛のようなものだ。・・・百年。思えば長いが、一年一年過ぎ去ってみると驚くほど短い。やらなくちゃいけない ことも山ほど残ってるし、やりたいこともたくさんある・・・・でもそのほうがいいのだろう」 王はその碧眼にイタズラっぽい光を浮かべた。 「暇になると何を言い出すかわからないからな・・・・そう、例えば、あちらに帰りたい、とか」 「主上」 「そう怖い顔をするな、例えば話だ」 「できますれば、例えでも臣の寿命を縮めるようなことは遠慮していただきたいものです」 「それは困る。浩瀚にはまだまだ冢宰として頑張ってもらわねばならないからな」 「ええ、この慶のために・・・主上のために、私は出来うる限りのことを成すつもりでおります。ですから、主上にも 末永く、この御世を支えていただきたく存じます」 「う゛、結局そこへゆきつくのだな。まぁ、こういうのは・・『なるようになれ』だそうだ」 「・・・・延王君でございますか?」 「ああ、私は肩に力が入りすぎだと、忠言してくださった」 「・・・・・・・。・・・・・・」 それは果たして”忠言”なのか。この真面目な女王が隣国の王を尊敬しているのは嫌になるほど知っているが あまり、その人となりを真似をしてほしくは無いと思っているのも真実だ。 「・・・では、この書類はいただいて参ります。そちらの残されたほうでございますが、本日はこれより式典準備が 入っており、女官たちが待機しておりますので、後日にいたしましょう」 「・・・・・私は、全然先にしてもらって構わないのだが・・・・」 「主上」 「・・・・・・・・」 「私は常々、女官たちだけは敵にまわすまいと心に誓っております」 「・・・・・・・・・・・。・・・・・・・さすがわが国の冢宰は有能だな」 苦笑まじりに女王は大きな息を吐き出した。 「仕方ない。虎穴にいらずんば虎子を得ず、というし」 よしっと気合を入れる女王に、浩瀚は顔をほころばせた。 この方は、変わらない。 いつまでも真っ直ぐに・・・・前を向いて歩いてゆかれる。 浩瀚の視界の先で、緋色の髪が揺れる。 それはまるで、炎のように。 この国は生まれ変わったのだ。 緋の色を持つ、この女王と共に。 |