■ 天意、真に非ず ■

第二部








 世界が変容し始めたことを知る者は僅かだった。










「兄様っ!!」
 後宮ならばともかく、官の出入りもある利達の執務室に日頃の楚々とした猫かぶりを打ち捨てて衣の
裾をからげて駆け込んできた文姫を、利達もまた動揺隠しようも無い表情で出迎えた。
「今、今…官が報せに…っ性質の悪い冗談でしょうっ!?」
 そうだと言って欲しいと願う文姫の必死な瞳に、そうであればどれだけ救われただろうかと思いながら
利達は鎮痛な面持ちで首を横に振った。
「冗談などでは無い。…これまで鳳が過ちを告げたことは無い」
「そんな、だって…つい先日即位30年のお祝いをしたばかりなのに…っ」
 翳りなど僅かたりとも見つけることは出来なかった、景王の治世。ああ、末永く続くのであろうと家族の
誰もが思ったというのに。
「誰が…いったい誰が陽子をっ」
 景麒失道の報せは無かった。ならば、誰かが陽子をその手に掛けたとしか考えられない。
「取り急ぎ、仔細を教えてくれるように雁へと青鳥を飛ばしたが…」
「雁?」
「慶はそれどころでは無いだろう。一番事情に通じているだろう雁に出すほうが話が早い」
「私が騎獣に乗って、直に聞いてくるわっ!」
「落ち着かぬか、文姫」
「だって兄様っ!!」
 朝が始まって以来、これほど文姫の慌てた姿を見るのは初めてのことだった。
「そのように取り乱し行動してどうなる?……慶の末声を鳳が知らせる前に、戴の末声も知らせた。偶然
というには重なりすぎる。何か、…何かが起きているのだ。軽率に行動してはならぬ」
「兄様…っどうして…っ戴も慶も十分に苦しんだのに…っ天はどうして更なる試練を与えようとするの!
民が苦しまぬようにと、十二国記を造られたのは天帝なのに……っ」
「文姫…」
 嗚咽する妹を抱きとめて、利達も同じ思いに天を仰いだ。







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「台輔、いずこへお出ましですか?」
「……冢宰」
 憔悴した様子で堂室を出てきた景麒を待ち構えたように浩瀚が声を掛けた。
 景麒はゆっくりと振り返り、感情の篭らぬ声で言葉を紡いだ。
「聡いそなたにはわかっているだろう」
「蓬山、でございますか?」
 景麒は小さく肯定した。
「玄君に、麒麟のお役目を解いていただくようにお願い申し上げに参る」
「主上が、そのようにしろと申されましたか?」
「……最早、あの方を主上とは呼べぬ」
「我が主上は、あの方をおいて他にありません」
 景麒の体が僅かに揺らぐ。
 迷いなくそう言うことが出来る浩瀚が羨ましい。麒麟にとって『主』は一人、では無いのだ。
 だが……
「・・・私にとっても、王はあの方ただお一人!もうあの方以外に私は、主など選びたくなど無い。私の王はあの方ただお一人。新しい王など…っ。……選ぶことの出来ぬ麒麟などこの国にとって禍となるだけ…」
 役目を返上することが無理ならば、黄海にてこの身を投げだし…朽ち果てよう。
          あの赤い輝きを想いながら……



「私は、主上を信じております」



「っ……浩瀚」
「主上以上に、この国に相応しい王はおられません。主上ほどこの国を愛しく思われていた方はおりませ
ん。……確かに白雉は鳴きました。けれど主上は生きておられた。我らの目の前で呼吸し、会話し、動いておられた。ならば、必ず戻ってきて下さると、そう私は信じております」
 真っ直ぐに景麒を貫く浩瀚の目は、『主上と天のどちらを信じるのか』と問うていた。
 景麒は目を閉じ、僅かに逡巡した後……浩瀚を見据えた。
「主上を王にと望んだのは私だ。主上は唯一無二の私の王…我が半身」
 だからこそ、血を吐くように苦しい。
 もしも…そんな期待。
 だが、…そんな諦め。
 信じたい………信じられない。
 千々に乱れる我が思い。


 

 『・・・・・・私が、少しでもお前にとって良い王であれただろうか、それだけが心配だ・・・・』




            主上…っ
 あの最後の別れの時。
 泣いて縋がり、行くなと懇願すれば良かったのだろうか。
 貴女だけが、我が唯一無二の王。他王などもう望みはしない、と。

「台輔、後悔なされるのはまだ早うございますよ」
「主上を…陽子を迎えに行ってあげて下さいっ」
「我らの主を取り戻してきて下さいっ!!」

 浩瀚の傍に、親しい者たちが並ぶ。
 祥瓊、鈴、桓魋、虎嘯、夕暉、遠甫に蘭桂……皆が、未だ陽子が『主』なのだと信じていた。



         まだ、私は間に合うだろう、か……?」




 彼らは、力強く頷いた。















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