■ 天意、真に非ず ■









 それはいったい何の冗談なのか、と恐慌をきたす頭とは裏腹に、陽子はひどく冷静に目の前で
 己が足元に叩頭する麒麟を見下ろしていた。








 

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 赤楽三十年の初秋。
 ある昼の出来事である。

 金の髪を持つ麒麟は、とても貴き存在とは思えない寝相で臥牀の上に横になっていた。
 いつもならば、朝議に出ろと叩き起こしに来る者の訪れもなく、心地よい空気の中で思う存分に惰眠を
 貪っている最中・・・至福のひと時と言えよう。
 だが、それも終りが近づいてきた。


「・・・台輔・・・延台輔」
 
「む・・・うーん・・」
 いつもの怒声では無い。優しい響きのある声。
 もう少し眠りたい。そんな思いをこめて寝返りをうつと、顔に何かさらさらとした感触が当たった。


 ――― 何、だ・・・?


 うっすらと開けた視界が赤く染まる。
 ――― 糸・・・・
 否。
 それは糸などでは無く・・・

「!?」
 一気に覚醒したらしい延麒に、くすくすと笑い声が落ちた。
「おはようございます、六太君。・・・もうお昼になりますが?」
「あー・・そっかぁ・・・」
 そこで漸く、延麒はここが自分の宮ではないことを思い出した。
 昨夜、門卒さながらの帷端の監視を何とか隙を見て逃げ出し、隣国までたどり着いた。
 窓から姿を現した延麒に目を丸くした陽子へ、やぁと挨拶した――― 後の記憶が無い。
「お疲れだったんですね、よくお休みでした」
 隣国の女王は楽しそうに笑みをこぼす。
「いや・・・」
 出会った当初は悲痛や悲哀の表情ばかり目についていて、あまり笑顔にお目にかかれなかったが、
 三十年という歳月が余裕を与えたのか、最近はよく笑顔を見せる。
 陽子の笑顔はいい。まっすぐな感情があたりの空気を暖かくする。
 延麒のお気に入りだった。
 不満といえば、それが自分ひとりのものには決してならないこと・・・。
「六太君?・・・寝ぼけているのか?」
「いや、目、覚めた」
「これから昼食なんだけど、一緒にどうかな?」
 もちろん延麒に否やは無かった。




 王と延麒の卓につく者は他に居ない。
 時折、景麒がそれに加わるときもあるが、不在にしているのかその姿は無かった。
「慶も女官が増えたよなぁ」
 自分たちの給仕を隙無く行う女官たちに目を走らせ、延麒はしみじみと呟いた。
 質素を好み、どちらかと言えば男らしい女王ではあったが、雁国の王宮に比べて王宮自体がどこか
 華やかだった。
「ええ、皆よく働いてくれて。私も見習わなければと思っているんです」
 陽子の言葉に女官たちは、まぁと声をこぼして笑いさざめく。
「はぁ・・いいよなぁ、慶は。華やかでさぁ」
「雁はうち以上に華やかだろうに」
 延麒の呟きが笑いのツボをついたのか、陽子はくすくすと笑い出す。
「うちは花やかは花やかでもどっか毒があるからなぁ、しかも無駄に色艶があるし・・あいつら、絶対に
 尚隆が狙いなんだよな」
 ちぇっとすねたように果物をつつく延麒に、ますます陽子は笑いを深くする。
「でもそれは仕方ないんじゃないかな。延王は誰でも見惚れるような美丈夫だから。妓楼では女性が
 寄ってきて放さないなんて噂もあるみたいだし」
「はん・・せいぜい下男として役に立つくらいだよ。・・だいたい陽子はそんな噂をどこから仕入れて来たんだ」
「南のあたりの御仁から」
 十二国で南といえば、真っ先に思い浮かべられるのは大国の奏。
 奏の太子は知る人ぞ知る風来坊である。
「あいつだって人のこと言えねーくせに」
「そのようですね」
「ん?」
「顔に似合わぬ剣の腕、優しい物言いが人気だそうです」
「・・・誰が情報源だ?」
「隣国の恩人に。・・・最も言い方は少し違いましたが」
 正確には『あいつは八方美人で誰彼なく手を出す奴だ。剣も早いが手も早い。陽子も気をつけろよ』と
 いうものだったが。
 延麒はどっちもどっちだと目の前の女王の気を引こうとして、全く気づいてもらえない二人の馬鹿な
 男の姿が思い浮かび、大きな溜息をついた。
「なぁ、陽子。これから時間あるか?」
「ええ・・・まぁ、特に急ぐものは無かったかな。何か?」
「じゃ、堯天行こうぜ!尚隆ばっかりじゃなくてさ、偶には俺とデートしよう!」
 500年の時を生きているとは思えないほど目をきらきらと輝かせた少年然とした延麒に陽子の口元が
 綻んだ。
「それでは、まるで私が延王とばかり出かけているようだ」
「違うのか?」
「ええ。延王君とは出かけた先で偶然お目にかかるまで。一緒に抜け・・・いえ、出かけたことはありません」
「それじゃますますデートしなくちゃなっ!」
 尚隆の奴に自慢して地団駄を踏ませてやるっと、息巻く延麒に陽子はとうとう声を立てて笑い出した。
「何がおかしいんだ?」
「いえ・・・仕方ありませんね。六太君のお誘いを断るなんてできないから」
 笑いを何とか抑えた陽子は、にっこりと笑った。
「よしっ!」
 善は急げとばかりに陽子の手をとった、延麒は呼び出した使令の背に乗ると、さすがに静止する陽子に
 構うことなく、堯天へと行き先を告げた。





 しかし、二人のデートは堯天についた早々に中止となる。
 景麒の使いである班渠が、泰麒の急報をしらせに来たのである。









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