万物此に始まる
――― お珍しい・・・ 堂室に足を踏み入れた景麒は、そこへ常になく集中して政務に励む主の姿に胸中でそう呟いた。 「台輔」 景麒に気づいた浩瀚が拱手すると、主・・・景王である陽子もやっと頭を上げた。 「主上」 「何だ。今日は真面目に仕事をしているぞ」 それは当然の事柄ではあったが、陽子はどこか誇らしげに景麒に言い張った。 「・・・いつも真面目に励んでいただければ嬉しく思います」 陽子との嫌味まじりの掛け合いにも最近は慣れ親しんできた慶国麒麟。 ・・・いや、『親しんで』はいないかもしれない。 「本日は如何なされました?」 「何か無ければ私は真面目にしてはいけないのか?」 「そういう訳ではございませんが・・」 傍に立つ浩瀚がそっと口元を押さえた。 「浩瀚」 「失礼を。お二人とも仲睦まじく宜しいことだと」 「・・・・そういうことにしておいてやる。景麒、今日は楽俊が来るんだ」 「楽俊殿が?」 「そう。ちょっと話したいことがあってね。私が無理を言って呼んだんだ・・・私が雁に行っても良かったんだけど」 「「主上」」 「・・・行って無いだろ・・・お前たちこそ仲睦まじいじゃないか」 つん、と朱唇をすねたように陽子は突き出す。 「まぁ、という訳だから。ちょっと抜けさせてもらってもいいかな?」 頼む、と手を合わせて見上げる陽子に、浩瀚は苦笑を景麒は吐息をもって返事とした。 「楽俊っ!」 庭院に置かれている路亭に立つ楽俊を見つけると陽子は駆け寄って手をとった。 ―― 以前は飛びついて抱きついたこともあったが、周囲と本人からそれだけはやめてくれという苦情が相次いだ ため今はこれまでにとどめている。 「元気そうだね!」 「陽子もな。ちゃんと食べてるか?」 「ああ。見てわからないかな?」 「それもそうだな」 照れたように獣形をとった楽俊は短い足で頭をかいた。 「将軍も、お久しぶりです」 陽子の後ろに少し遅れてついて来ていた桓堆にも楽俊は頭を下げた。 「お元気そうで何よりだ」 「それだけが取りえなんで」 「今度楽俊が来る時には改めて言いたいことがあるから教えてくれって言われてたんで、桓堆も一緒に来て 貰ったんだけど良かったかな?」 「そりゃぁ構わねぇけど・・・」 楽俊の髭がそよそよと動く。 「楽俊殿には、改めてきちんと礼を申したいと思っていたのだ」 「へ?」 「以前、将軍職を辞して下ろうとしたところを引き止めてくださっただろう。楽俊殿のおかげで俺などの浅はかな 考えで早まったことをせずに済んだ。あの折は落ち着かずきちんとお礼を申し上げなかった。改めて礼を申す」 拱手して頭を下げる桓堆に、楽俊は飛び上がった。 「そ、そんな大層なことはしてねぇですから、おいらは!どうぞ頭を上げて下さい・・・よ、陽子も笑ってねぇで」 「くすくす、私も楽俊にはただならぬ恩があるから・・・桓堆の気持ちはよくわかる」 「陽子ぉ〜」 勘弁してくれ、と言わんばかりの楽俊に、陽子と桓堆は顔を見合わせて笑った。 奚の用意した茶を陽子が二人に自ら供する。 畏れおおいことであるが、この王宮では多々見られる光景であるため二人は遠慮なく戴く。 「ところで、陽子。俺に用事があるっていうのは何だ?」 「楽俊、そろそろ大学を卒業だろう?」 「まぁ今のところ・・・大丈夫そう、かな」 「うち(慶)で官吏にならないか?」 単刀直入に言われ、楽俊はあわや、お茶を吹き出しそうになった。 「な、何を」 けほけほっとむせる楽俊を桓堆は苦笑しながら気の毒そうに見やる。 「そんなに驚くことじゃないと思うが・・・前々から言っていただろう?」 「そ、そりゃぁまぁ・・・でもなぁ」 「冗談だと思ってた?」 「・・・・いや」 そういうことに関して陽子が冗談など言う性格では無いことは、楽俊は身に染みてわかっている。 ・・・わかっていたはずなのだが。やはりはっきりそれが形を成そうとするとどうしても躊躇してしまう。 「楽俊は優しいから、私がこう言うときっと断りにくいと思う。そうでなくても、楽俊には延王からの誘いもあるだろうし ・・・それ以上に、巧のことが気になっていると思う」 「・・・陽子」 「たぶん、もうすぐ巧には麒麟旗が上がるだろう。もし、王が立てば、楽俊は帰るつもりで居るんじゃないか?」 「・・・・全く、陽子にはかなわねぇな」 ぺしっと額を叩いた楽俊は、ほぅと息を吐いた。 「陽子はよくおいらに恩があるって言うけどな。おいらのほうこそ、陽子に恩がある。延王にだってよくしてもらって 返しきれない恩がある。だからおいらに出来る限りのことで、精一杯それに報いていきたいとは思ってるんだ。 ・・・だけどな。やっぱりおいらは巧の民だ。巧は半獣には厳しい国で、官吏にはなれねぇ。帰ってもまた母ちゃん に迷惑かけるだけかもしれねぇ。だけどだから他国で官吏になるなんて器用なことはおいらには出来ねぇんだ。 どこの国にだって差別はある。差別はなくしていくもんだ。陽子はそうした。だからおいらは希望を捨てたくねぇ。 自分の国を見捨てることは出来ねぇ・・しては、駄目なんだ」 「楽俊殿・・・」 「だから陽子には・・景王には申し訳ありませんが、身に余る光栄なお話ですが、お断りさせて戴きます」 「楽俊、頭を上げてくれ」 断られたというのに陽子は微笑を浮かべていた。 「楽俊がそう言うだろうっていうのはわかってたんだ。・・だけど考えてみて欲しい。麒麟旗が上がり、王が選ばれる までの間、楽俊の身は空くだろ?私はその間だけで構わないから楽俊にうちに来て欲しいんだ」 「!?・・・陽子、そりゃぁ・・・」 「五年・・いや、もっと短いかもしれないけどうちの官吏として働いて欲しい・・・私の傍で、見ていて欲しいんだ」 「・・・陽子、それは・・・おいらにとって虫が良すぎる話だ。寵の偏りだって言われちまう」 塙王が立つまでは暇だから慶国に官吏として勤め、立てばその必要が無くなるから巧に帰る。 そんなことは許されることでは無い。 「信頼できる相手に寵を与えて何が悪い?―― そう答える」 桓堆は苦笑した。どこかの誰かが言いそうなセリフだと。 「畏れながら主上、延王君もそう楽俊殿をお誘いされたらどうされるんです?」 「それは大丈夫だ、心配いらない」 「「は?」」 妙に力強く太鼓判を押され、楽俊も桓堆も陽子をまじまじと見つめた。 「延王にはもう話を通してあるから」 「はぁっ!?」 恐ろしく早い手回しだ。 「楽俊の知らないところで勝手にして悪いと思ったけど、交換条件で譲ってもらったんだ」 「「・・・交換条件??」」 「ああ」 異口同音に繰り返す二人に、陽子は悪戯っぽく笑ってみせる。 それ以上は何も言わない・・どうやら秘密らしい。 「(・・・主上、いったいどんな条件を出されたんですか・・・)」 桓堆は眩暈がしそうだ。 「心配しなくても、大綱に触れるようなことじゃないから」 「当たり前です」 「・・・・・陽子、おいらにはそこまでして貰うほどの価値はねぇぞ」 「雁の大学を主席で卒業しようかっていう相手に価値が無くて、他の誰に価値を見つけるんだ?」 「・・・それに、陽子がそう言ってもそうほいほいおいらを官吏に登用なんて・・・」 「浩瀚はいいって言ってくれたから」 「は!?」 「そんなに堅苦しく考えなくてもいいんだ、楽俊。いつか楽俊が巧の官吏になったときのために今から誼を通じて おこうって、不純な動機なんだから」 「・・・陽子、おめぇ・・・何ていうか本当に口が上手くなったな」 「ありがとう」 いや、褒めたわけじゃねぇんだけど・・と楽俊は大きな溜息を吐き出した。 「何だかまんまと外堀埋められちまったみたいだな、おいら・・・全然役に立たないかもしれないんだぞ?」 「それを言うなら、私だって今のところあまり役に立たない王だから、大丈夫だ」 「・・・主上」 胸を張って言うべきことでは無い。 「・・・本気、なんだな?」 「ああ。本気だ」 頷いた陽子に、楽俊は立ち上がると膝をつき拱手した。 「景王のお言葉、身に余る光栄。謹んでお受け致します」 「楽俊・・・」 「未だ若輩にて、ご期待に沿うことが出来るかわかりませんが、精練に勤めさせていただきます」 「楽俊、頭を上げてくれ」 「・・て、どうも照れるな。こういうの」 「ありがとう、楽俊。私もまだまだ至らぬ王だが、よろしく頼む」 楽俊の小さな手を取り、陽子は頭を下げた。 |
CDドラマ『地に獣』を聞いてからだとよくわかる・・かも。