■ 第二話 ■ |
景麒は主の居なくなった執務室に立っていた。 執務机の上には裁可を待つ書類がそのまま、使用していた辞書も、椅子の位置も。 ほんの少し席を外しているのだと言われても頷いてしまいそうに、容易くその様子が思い浮かべられる。 (主上・・・) どうして、と景麒は目を閉じる。 水禺刀に選ばれ、この国の最高司令官になることは選ばれた民の義務だ。そう教えられるはず。 だが前王舒栄も、そして陽子もその義務から目を背け、逃げ出した。 舒栄は陽子のように行動にこそ移さなかったが、政には全く関心を寄せず自室に篭って出てこなかった。 水禺刀に間違いは無い。 必ずこの国を治めるにたる器を持つ人物を選ぶ。 だがそれは必ず名君となると保証されている訳では無い。その資質を持っているに過ぎない。 「水禺刀は、お持ちになったか・・・」 景麒が、その存在を陽子に伝えたからだろう。 だがそれが全てでは無い。そんなことをしてもただの時間稼ぎにしかならない。 もういっそのこと、と思わないでも無い。 その気も無い少女に無理強いしていることは景麒だってわかっている。 陽子が居なくとも政治は滞りなく進んでいる。支障は無いように一見見える。 そう、見えるだけ。 王の力、それは国力だ。王が居なくてはこの国は早晩他国の侵略を受けるだろう。 「台輔。主上は・・」 「ご自身でお戻りにはならないだろう・・・」 宰相の浩瀚は静かに頷いた。 「さぞかしお前たちは私を恨んでいることだろう。またもこのような主を、と」 「台輔」 浩瀚は景麒の言葉を止めた。 「台輔はあの方を選ばれた。ならばあの方がこの国の主なのです」 「浩瀚」 「きっと名君と呼ばれる王におなりになるでしょう。私は主上を信じております」 「・・・・・・そうか」 選んだ景麒こそが、最もそれを信じていないというのに。 「雌伏の時でありましょう。お任せ下さい。主上がお戻りになる前に国を傾けるようなことは致しません」 「・・・頼む」 景麒に敬礼した浩瀚は立ち去った。 そして景麒も、もう一度部屋を振り返り・・・立ち去った。 「陽様」 名を呼ばれ、はっと陽子は我に返った。 ぼうっとしていた陽子はここが妓楼であることを思い出す。 くすりと陽子の隣に座っていた咲莓(しょうまい)という妓女がくすりと笑った。 「何やら夢から覚めたようですわ」 「・・・そうだな。あまりに貴方方の楽と踊りが見事だったので」 「まあ。ありがとうございます」 この妓楼では陽子の想像していたような、男女の生々しい気配は無かった。 客を芸でもてなし、話で客を楽しませる。全くそういうことが無いという訳では無いのだろうが、男では無いのにどうしようかと困惑していた陽子には有難かった。 「ほう、陽も隅に置けぬ。二姐を口説くとは」 「・・・別に口説いている訳では。そう思ったから言ったまでです」 見ている限り風漢はかなりの量の酒を空けているはずだが、顔色は変わっていない。強いのだろう。 ちなみに陽子の前には果実水が置かれている。酒が駄目だという陽子に咲莓が用意してくれたものだ。 「素直なお方なのですね」 「本当に。風漢様とは大違い」 風漢についている喬凛が艶やかに微笑む。 「何を言う。俺ほど素直な者もおらぬだろう。だからこうして今日も喬凛の元に参ったのだから」 よくもぬけぬけと言えるものだ。 「そういうことにして差し上げます」 喬凛も咲莓という妓女も余程格が高いのだろう。その美貌もその教養も、こんな田舎出の無一文の相手をするような妓女では無いと幾ら物知らずの陽子でもわかる。 それなのにこうして蔑むことなく相手をしてくれている。 世界が違う。 ふと、陽子は思う。 金波宮も、ここも。 陽子が生きてきた世界とは、違う。 陽子は目を閉じた。 |