■ 第三十二話 ■ |
陽子はすうと息を吸う。 「通るぞ」 静かに告げられた言葉に門番は誰何することも忘れて陽子を素通りさせた。 「え……っ」 その姿が門の奥に消えていく。慌てて自分たちの役割を思い出すが時すでに遅い。 まるで幻のようにその姿はどこにも無かった。 空気が違う。玄英宮とは、空気が違う。 陽子はそれを肌で感じた。 玄英宮にはどこか雑然とした、それでいて秩序ある活気に満ちていた。 金波宮は静かだ。それは落ち込んだ静けさだ。先の無い……。 王宮には王にしか使えない道がある。その道を歩きながら、陽子は一直線に目指していく。 「絶対に……」 陽子は拳を握る。 雁国で、陽子は延王に時間を乞うた。 景王として、愚かな行為を止めるから。どうか慶国に進軍するのを待って貰えないかと。 延王は面白そうにしながら陽子に尋ねた。 お前の言葉が聞き入れられなかったその時は?……と。 覚悟を決めた陽子に延王は一つだけ条件をつけた。 「本当にあの人は……無茶を言う」 けれど、だからこそ陽子は再びこうして慶国に戻る覚悟が出来た。 見上げる重厚な扉に陽子は睨んだ。 そして。 扉を開け放った。 突然荒々しく開かれた扉に何事かと中に居た者たちが一斉に振り返る。 そして、仁王立ちする陽子を視界に入れて……驚く者、不審そうな顔をする者、迷惑そうな顔をする者が居る。 驚く者は陽子の顔を知っている者。不審そうなものは知らぬ者。 「何だ、ここは会議の場だぞ。誰の許しを得て……」 端席に居た男が追い払うように手を上げる。 陽子は男を睥睨する。 そして部屋の前に驚愕の表情で立ち上がる相手に視線を向けた。 「景麒。私は誰かの許しを得ねばここには入れないのか?」 「い……いえ、 擦れた景麒のその言葉に陽子を追い払おうとした男は落雷を受けたように身を震わせる。 そして、知らなかった者たちも驚愕に目を見開いた。 陽子はその驚愕の畏怖の満ちる中を突っ切って景麒の元へと歩いていく。 その姿を何十もの視線が追っていく。 景麒は自分に向かって真っ直ぐに歩いてくる姿を驚きと共にただ見ていることしか出来ない。 いつも何かに怯えている姿しか知らなかった。何かに恐れ、顔を伺い、下を向いていた頼りない姿しか。 しかし今景麒へと向かってくる姿は……年足らずの少女とは侮れない覇気を纏い、景麒を強い意志で見つめる。 まるで別人だった。違う誰かが成り代わった……そんな推測さえできるほどに。 しかし景麒にだけはわかっている。 目の前の少女が紛うことなく、自分の王であると。 「景麒」 景麒の前まで来た陽子が立ち止まり、名を呼んだ。 それだけで、景麒は自然と膝をついた。 「雁国に対して宣戦布告したと聞いた。……私はそんな命令をした覚えは欠片も無い」 景麒の肩が震えた。 「差し出口をお許し下さい、陛下」 脇から口を挟んだのは沈黙していた浩瀚だった。 「台輔に、進言いたしましたのは私にございます」 陽子は浩瀚の方は見ない。 「許したのは景麒だろう。私が居ない間の国事の最高責任は景麒にあった」 「……左様に、ございます」 景麒がうな垂れる。 陽子はそこで初めて浩瀚を見た。 「浩瀚。何故負けるとわかっている雁国に対して宣戦布告などと馬鹿な真似をした?」 「我が国のためです」 負けるとわかっている戦を吹っかけることの何が慶国のためなのか。 浩瀚が本気で雁国に勝てると考えているとは到底思えなかった。陽子などより余程有能なのだから。 三人のやりとりを他の家臣は息を潜めて伺っている。 「我が国ため……か」 「そうでございますっ陛下!富める雁国を併合し、我が国に豊かさをっ!」 また何処かから上がった声に、本気で陽子は『お前は馬鹿か』と投げつけたかった。 雁国を見たことがあるのか、と。 あの豊かさの上に成り立つ平和、その平和を支える軍事力がどれほどのものか。 慶国の軍など対したが最後、一網打尽にされることは間違い無い。 「こうして、陛下がお戻り下さいましたこと。それが我が国の為でございます」 そして浩瀚はいけしゃあしゃあとそう口にした。 |
延王との条件・・・・・・忘れないといいな(私がな)