華炎記
 ■ 第十話 ■






 景王。
 それが始め、何のことかわからなかった。

         ああ、私のことか。

 それほど、陽子にとってその呼称は遠いものだった。
 何を知って、何を思って、風漢がそれを知っているのか。

「逃げる……、ですか」
「ああ。雁国まで来て官吏の真似事とは」
「雁国に来たのは風漢のせいでもあると思いますが……?」
「そうだったな。お前がどんな反応をするだろうと思って誘ってみた」
 それは拒まなければならなかったと言いたいのだろうか。
 小さく溜息をつく。
「何故風漢がそのことを知っているのか知りませんが、私に景王などという大それたものになる気はありません。こうして、その日を生きていければそれで十分。私が居なくなれば、景麒もまた相応しい者を探すでしょう」
「お前は……何も知らぬのだな」
「何も?……そうですね。私はただの学生でしかありませんから」
「そうでは無い。景麒は言わなかったのか?」
 風漢が首を傾げる。
「何を?」
「王は同時に並び立つことはない。お前が景王だと景麒が言うのならば、お前が生きている間は二人目の景王は現れない」
「……冗談を」
 王など相応しい者を選べばいい。……そう、浩瀚など最適では無いだろうか。
「冗談だと思うか。本当に?」
「……」
 陽子は目を逸らした。
「お前は、景王だ」
「っ私は……」

          そんなものになりたいだなんて一言も言って無い!!

 叫びを心の裡に溜めて、陽子は風漢に背を向けた。
「理不尽だろう?」
「……」
 唇を噛み締める。
 怒りと不安が身のうちを暴れまわり、叫び声を上げそうになる。
 忘れていたことを思い出させた男に、心底怒りが湧き上がった。顔を見ていたら殴りかかりそうになる。
「麒麟の祝福はどれだけ財を積もうと、どれだけ願おうと決して与えられない。それを誰に与えるかは麒麟にしかわからない。英雄に与えられることもあれば、ただの農民に与えられることもある。望まぬ者に与えられることもある。それを」

          呪い、だと言う者も居る。

「……風漢」
 振り向き、薄闇に紛れた男の表情はよくわからない。

「貴方は………誰、だ?
 陽子の問いに口元が笑ったのがわかった。
 素直に吐くとは思えない。
 だが、余計な嘘を重ねる男でも無いだろう。長い付き合いでは無いが、そう思った。
「想像はついているのでは無いか?」
「……想像、したくもありません」
 くつくつと風漢が笑った。
 風漢が立ち上がり、陽子に近づいてくる。風が、陽子の髪を揺らした。


「改めて名乗ろう。俺は雁州国延王尚隆。景王には見知りおき頂きたい」


 風漢の、延王の目が挑むように陽子を見ていた。