■ 始まり ■ |
「お諦めになって下さい。貴方が何処に行かれようと水禺刀が貴方を見失うことはありません」 顔の表情一つ変えずに行われた最終宣告に少女は「くそったれ」と小さく呟いた。 軍事国家慶国の最高指導者の椅子。 そこに座るのは歴戦の勇者でも無ければ選ばれた代表者でも無い。未だ十代の少女だった。 燃える炎のような朱色の髪と萌える緑の瞳を有する美しい少女だった。 「…こんなの持ってこられたって訳もわからず印押すしか出来ないだろうが」 堆く積み上げられて書類を指差し、少女は傍らに立つ長身の男に訴えた。 「字はお読みになれると伺いました」 少女は眉を顰める。 「読める…のと理解できるのは違う」 「問題ありません。読んで理解できない部分があればお聞き下さい」 「……」 少女はぎゅっと拳を握った。今にも叫びだしたいのを押さえつけるように。 (何が理解できないのかわからないのに聞けるわけが無いだろうが…っ!) 普通の学生をしていた一般庶民が国の行く末を決めるような決定を出来る訳が無い。 ふぅと傍らの男が溜息をついた。 「ご心配なく。報告されるものはすでに幾つものの部署を通過し、宰相の承認も得ているものです」 つまり、やはり少女のやることは印を押すだけなのだ。 御託を並べずさっさと押せと。そう言いたいのか。 ダンッと少女は叩きつけるように書類に印を押した。それから親の敵のように印を押し続けた。 「お疲れ様でした。本日の執務はこれで最後となります。どうぞゆっくりお休み下さい」 書類を抱えて部屋を出て行く男の姿を睨みつけていた少女は、その姿が完全に扉の向こうに消えたのを確認して机に盛大に打ち伏した。 「…もうっ無理…だ!」 逃亡後、捕獲されて一週間。少女は真面目に働いた。不本意な思いを日々募らせて。 「私が…”総司令官”?何の冗談だ…」 朝、目が覚めればこんな荒唐無稽な夢は終わっている。 そう願い続けた一週間。夢は終わらず未だ続いている。 『貴方がこの国の新しい総司令官です。どうぞこの剣をお持ち下さい』 突然家に現われた男はそう言って少女に剣を差し出した。何かのドッキリかと少女は周囲を見渡したが、その誰もが時が止まったように動きを止めて二人を見ているだけだった。 剣などというものは見たことはあっても触ったことも無い。それほど少女はほど遠い世界で生きていた。 そのまま少女は事情も把握出来ないまま問答無用で軍用車に押し込まれ、気づいた時には国の中枢である総督府だった。少女の親、もしくはそれ以上の年齢の軍人たちがずらりと並び敬礼している姿は壮観だった。 これが少女も観客の一人として見られたのならば凄いね、と他人事のように感心できただろう。 だがその軍人たちは誰あろう、少女に対して敬礼しているのだ。 足が竦んだ。 すぐに逃げ出そうとした。だが背後を振り返れば、少女を攫った無表情の男が立っている。 いったい自分を誰と勘違いしているのか。 「勘違いなどではありません。水禺刀は貴方を選んだ」 「そんな剣が何だって言うんだ…っ」 剣ごときに人生を決められてたまるか。 「ただの剣ではありません。慶国は代々この水禺刀に選ばれた女性が君臨してきた国です」 そんなことは少女には初耳だった。 「先頃舒栄様が身罷られたことはご存知のことと思いますが、舒栄様も水禺刀に選ばれこの国の指導者として立たれました」 「…なら必ずしも最適な人間を選ぶわけじゃ無いんだな」 亡くなったという舒栄はほとんど公に姿を見せなかった。巷ではただのお飾りで実際の政治は周囲の側近たちによって行われていると評判だった。 「いいえ。水禺刀は指導者たる者を選びます。その選択に間違いはありません」 「…だったらこれが最初の間違いなのでは無いか?」 だから早く元の場所に戻して欲しい。 「間違いはありません」 どこにそんな自信があるのか男は少女に言い切った。 「どうぞこちらへ。これから貴方のお住まいとなる場所へご案内致します」 「私は…」 納得などしていない。 そうして少女は男の傍らを駆け抜けた。 逃亡は一時間も経たずに終了を告げた。 相手は国家権力を動かせる。非力な少女が逃げ出せる訳も無い。 そうして少女は選択の余地も無く、執務室に押し込まれて印を押している。 印を押しながら少女は考えた。 どうすればこんな状態から解放されるのか。 考えた少女の目に留まったのは少女がこの場所に来ることになったそもそもの元凶である剣だった。 「水禺刀…て言ってたよな」 少女には装飾は立派だがただの剣にしか見えない。これが少女を選んだというのは何かの比喩では無いのだろうか。だがこの剣があるから少女の居場所がわかるというのならば、少女がこの剣を持って逃げれば探す手段は無くなるだろう。逃げたところで土に埋めるなり、川に流すなりすれば良い。 「よしっ」 意を決した少女は動きにくく重たい衣装を脱ぎ捨て平服になると立てかけられていた剣の柄を握った。 |