ある日の情景
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紙装甲というのは読んで字の通り、あまりに頼りない防御力を指す。こんなこと今さらかもしれない。 しかし今さらながら言おう。 付与術師は紙装甲なのだ。 力も前衛に比べるのが悲しいほど少ない。 そんなことは誰もがわかっている。 男が男に壁どん、なんて誰得なのか。 T女史かH女史か、リ=ガンか。 「えーと……」 シロエは何と言うべきか言葉を失っていた。 自分の顔の両脇に置かれた逞しい腕は純粋に羨ましい。 「君は目を離すと、すぐに虫を引き寄せるようだ」 「虫?」 虫とは何だ。何かのアイテムか。 シロエは考えるがもちろん、真横に逸れている。 こんな時には非常に優秀なはずの頭は全く解答を見つけることが出来ない。 「引き寄せる蜜でも纏っているんだろうか」 クラスティの顔が至近距離に近づき、さらに近づいてくる。 「……確かに甘い匂いがする」 「それはヘンリエッタさんが持ち込んだ薔薇の匂いのシャンプーのせいで」 「男を昂揚させる匂いだ」 赤い瞳が不穏に輝く。 その光に差しぬかれたようにシロエは動けない。 いや、動けたとしてもシロエの力では実力でこの腕から逃れる術は無い。 シロエは考える。 クラスティは何がしたいのだろうか。突然にやってきてシロエを呼び出し、そして今のこの状況。何か訴えたいことがあることは確かなのだろう。 「クラスティさん」 「何?」 円卓会議の代表として最もアキバに縛り付けられていたクラスティ。 彼のギルド、彼の狂戦士としての性は暴れ出す寸前だ。 その前にこうして自分のところに来て貰えて良かったとシロエは安堵する。 「わかりました。やりましょう」 その一言が災難の始まりだった。 シロエの言葉にへえとクラスティは眉を上げた。 「何を<やって>くれるのかな?」 「最近平和だったから退屈なんですよね。ソウジロウからレイドクエストの誘いが……」 シロエの言葉が途切れたのはクラスティに黙らされたからだ。 文字通り、手で物理的に。 「君の口から聞くのは私の名前だけでいい」 何だそれ。何だそれ。 この期に及んでシロエはクラスティが言葉遊びをしているのだと信じていた。 信じ込もうとしていた。 その間もクラスティは隙無くシロエを追い詰め、二人の間にある距離は掌一つ分となっていた。 赤い目がシロエを突き刺し、揺らいでいる。 「そう。確かに私は退屈しているのかもしれない」 狂戦士の名に相応しく。 彼の傍らに侍るのは平穏などでは無い。 「獲物が手強いほど心躍る。昂揚する」 そうだろう、と紅い瞳がシロエへ問いかけてくる。 確かに同意はする。だがシロエは平穏は平穏で好んでいる。 何しろこの世界にやって来て「平穏」と呼べる日はどれほどあっただろうか。 円卓会議やら供贄やらゴブリンやら……つまり波乱万丈なのである。 休む暇なく。 だからそれで退屈など感じるクラスティの気が知れない。 どれだけ戦闘狂なのか。 シロエの呆れるような視線に気がついたのか、クラスティはにっと笑う。 「君なら私を退屈させないでくれるだろう」 それはいったいどのような意味なのか。 心躍るクエストを探してこいということなのか。 手強い獲物を見つけろということなのか。 「難しく考えることは無い。シンプルにいこう」 確かにシロエは物事を考えすぎるところがある。それは周囲にもよく言われる。 しかしそういう性分なのだから直そうと思っても簡単には直らない。 「私は君に非常に興味がある。シロエ君」 「……」 口を塞がれていて何もしゃべれないが、そうで無くともシロエは絶句していたに違いない。 興味がある? それはいったいどういう意味で。 「だから君を知るために、私に時間を貰いたい」 返事はイエスしか認めない。 そんな気配を漂わせて、狂戦士は微笑んだ。 ****************************** ソウジロウは無類のハーレム体質である。 しかも本人にそうしようという意識は無いのに勝手にハーレムが出来ている。 男にとっては敵にしかならない男だ。 しかし、ハーレム体質であったとしてもソウジロウは女性に囲まれて満足しているかと言えばそうではない。 彼女たちはただ守るべき存在であるから大切にしなければならない。そう思っているだけだ。 「あなた方は僕が守ります」 そう言われてきゅんとこない女が居るだろうか。 だからソウジロウの周りには女性が集まる。 しかしソウジロウの想いが彼女たちの特定の誰かに向かったことはない。 ソウジロウが「好きだ」と言動から示す相手はただ一人。 シロ先輩と呼ぶ付与術師相手だけだ。 そのシロエをレイドに誘ったのは一昨日のこと。準備もあるからと1日置いた本日が約束の日。 ソウジロウは朝から自分のギルドホームでそわそわして落ち着きがない。 約束の時間までは大分あったがついに我慢出来なくなって飛び出した。 まるで遠足前の子供のようだ。 目はキラキラと満面の笑みを浮かべて、羽が生えたかのように飛ぶようにソウジロウは記録の地平線のギルドホームへと向かった。 「え?居ない?」 そこでソウジロウは信じられない言葉を聞いた。 「そうなんだにゃ。昨日からシロエちは昨日から不在にしているにゃ」 「そんな、え、でも……」 シロエがソウジロウとの約束を破るとは思えない。 「何か約束をしていたのかにゃ?」 「……はい、レイドを」 ソウジロウの呟きをにゃん太は確かにそれはおかしいですにゃと頷く。 シロエがギルドホームを留守にすることは無い訳では無い。 だが誰かと約束をしていてそれをすっぽかずようなシロエでは無い。ましてやその相手がソウジロウならば。 「そうだ念話を……でも何か緊急の用事だったら」 邪魔をしてしまうかもしれない。 ソウジロウはすぐさま念話をしそうな気持ちを押し留め、どうしたらいいかとにゃん太を見つめる。 「ソウジっちは気遣いさんだにゃ。でもシロエちはソウジっちからの念話を邪魔だにゃんて思うわけがにゃいにゃ」 にゃん太の知る限り今のシロエが何かを抱えていた気配は無い。 むしろいつもよりのんびりと過ごしていたはずだ。 「我が輩も心配になってきたにゃ」 「っわかりました」 にゃん太の言葉に吹っ切れたソウジロウがシロエを呼びだす。 かすかな鈴の音が響いた。 『シロエ先輩っ!』 悲鳴のような声にシロエはまどろんでいた世界から覚醒した。 一瞬ここが何処だったかわからなくなる。 だが、すぐに記憶を探り当てた。 「……ソウジロウ」 だがそれよりも相手の応答に答えるべきだろう。 表示された時刻に目をやれば約束した時間を過ぎている。 『先輩っ!今どこですか!?』 「ああ、えーと……」 素直に場所を吐くと何だか困ったことになる気がしてシロエは言葉を濁す。 「約束、破ってごめんね」 『そんな……っ先輩っ!何かあったんですか!』 しかしソウジロウの切迫した声音は和らがない。 「大丈夫……大丈夫、だから」 シロエの記憶が確かならば今現在自分が居る場所は<D.D.D>のギルドホールである。 その一室にシロエは横たわっていた。 周囲に人の気配は無く、クラスティも不在にしているようだ。 意識を失う前に見た赤の煌きに背筋がぞくりとする。 退屈な狂戦士は本当に手に負えない。 はあと心の内で溜息を吐いて、もう一度ソウジロウに大丈夫だと繰り返した。 「今日……明日には戻るから。ちょっと遅れてしまうけど、良いかな?」 『っもちろんですっ!でも無理はしないで下さいね』 「うん、わかってるよ。ありがとう、ソウジロウ」 身を起こせば特に問題なく体は動く。 またあの狂戦士に捕まると厄介なことになるのはわかっているのでさっさと逃げ出すべきだろう。 恐らくこれが故意に与えられた隙だと半ば勘付きながらもシロエは行動を開始する。 『はいっ』 「それじゃまた後で」 シロエは部屋を見渡し情報を収集する。 白い部屋の中、シロエが横たわっていたのは白いベッド。 『シロ』繋がりとでも言うつもりなのか。 出口にある扉に手をかけるとしっかりと鍵が掛けられている。 出入りの制限がされているらしくシロエには開けることが出来ない。 「手の込んだことを……」 いったい何時から準備していたのやら。 その行動に呆れるが、それでもシロエはクラスティに対して負の印象は持っていない。 それどころか手強い相手に対して、口元が笑っている。 「それで退屈の虫が治まるというのなら」 シロエも全力で相手しようでは無いか。 手を伸ばした窓の枠が光り輝いた。 |