主よ 人の望みの 喜びよ 6


 色々とあった翌朝。

 綱吉は見馴れない高い天井に、いったいここはどこだっただろうと一瞬だけ迷い、ああそうかと思い出した。

      ボンゴレの総本部。

 その一室に…綱吉の部屋の十倍ぐらいの広さの寝室、隣室には居間、反対隣にはバスルーム…これがホテルなら綱吉もすげーと感動して大の字になって寝転がることができただろうが、あいにくそんな能天気な気分にはとてもなれなかった。
 ああ、本当にいっそのことこれがすべて夢だったなら……


「夢じゃねぇぞ。さっさと起きろ」
「起きるっ起きる!銃口つきつけんなって!」


 あまりにいつも過ぎる朝の情景に、慌てて綱吉は身を起こした。

「おはよう、リボーン」
「支度しろ。9代目が一緒に朝食をと待ってる」
「え!?そ、そういうことは早く言えよ!」
 一般的な日本人らしく、目上の人間を待たせるのは恐縮してしまう。
 無駄に広いベッドから飛び降りて…たぶん、キングとかクイーンとかいうサイズなのだ…綱吉はあわただしく身なりを整えた。髪がはねてるだの、ネクタイが曲がっているなどいちいち家庭教師の突っ込みを受けながら。




「おはよう、綱吉」

 リボーンの後ろに張り付いて、綱吉がやってきた部屋は…想像していたものとは違い、少々ほっとした。またどこかで見たような長いテーブルがどーんと置かれて、召使がその脇にずらりと並んでいるのを想像していたのだ。
 だが、部屋こそ広いものの前面ガラスばりの天井から降り注ぐ光の下に用意されたテーブルは4人がけ程度の広さの丸テーブルで、腰かけているのは9代目のみ。傍にいるのも昨日居た執事だけだった。
「おはようございます。すいません、お待たせして…」
「いや、昨日の疲れは残っていないかね?慣れない場で肩が凝っただろう」
 労わる言葉に促されながら綱吉は9代目の対面の椅子に腰掛けた。
「さぁ、食べよう」
「はい」
 リボーンは入り口で直立し、動かない。
 そういえば、獄寺君とかディーノさんとか、コロネロはどうしたのだろうか。
 自分のことでいっぱいで彼らのことなんて頭から飛んでしまっていた。
「昨日のスピーチは素晴らしかった。君を選んだ私の目に間違いは無かったと安心したよ」
 間違いだったらどれほど良かっただろう。
 往生際悪く、今でも綱吉はそう思う。
「イタリア語はリボーンに習ったのかい?」
「へ?」
 そこで初めて綱吉は自分が普通にイタリア語を理解して応答していることに気がついた。
 ああ、またあのクソ家庭教師が…っどうせ睡眠学習とか何とか綱吉が知らない間に仕組んだのだろう。…まったく。
「実に美しいイタリア語だ。綱吉の声に乗ると、まるで天使が耳元でささやいているようだ」
 ははは、と綱吉は乾いた笑いを漏らした。
 ディーノで多少免疫ができているとはいえ、こういうイタリア男の紙一重な誉め言葉は綱吉には受け入れがたい。
 ああ、そういえばリボーンからはそんな浮ついた言葉なんて聞いたことも無かったな…それとも数多くいるらしい愛人にはささやいているのだろうか…愛の言葉を囁くリボーン……想像できない。
 と、綱吉の背に鋭い視線が突き刺さった。
 心の読める家庭教師にはすべて筒抜けというわけだ。はぁ。
 綱吉は香ばしいパンを口に入れて咀嚼する。
 いつも遅刻寸前の綱吉にとって、朝食は食べたり食べなかったたりと落ち着いて食べたことが思い出すほどしかない。しかもあまり親しくも無い人間と同席しての食事というのは、どうしても緊張してしまう。
「もういいのかい?」
 手を止めてしまった綱吉に9代目が声をかけるのに、弱弱しくうなずく。
 執事が、白磁のカップにコーヒーを注いでくれた。
「さて、これからの綱吉の住居だがね」
「は?ここじゃないんですか?」
「私は綱吉と一緒に暮らすことに否やは無いのだがねぇ、私たちが一つ場所で暮らすというのは何かと不都合があるらしい」
 抗争があったときに共倒れになりかねないからだ。
「そういうわけで、ここより少し離れたナポリに別荘を用意させた。しばらくは観光でもしてゆっくり過ごすといい」
 しばらくは…その言葉の裏にある意味を考えながら綱吉は頷いた。
 頷くしかなかった。





「十代目!おはようございますっ!!」
「…おはよう、獄寺君」
 朝からテンション高い獄寺の挨拶にもここ数年ですっかり慣れてしまって、聞けない日はちょっと寂しいかもと思ってしまうのはどうだろう。
 そんな綱吉の内心の思惑など知らず、いかにもな黒塗りの車の前で、さぁどうぞ!と扉を開けて待っている。
「また遊びにおいで。待っているよ」
「……は、はい」
 遊びに?
「綱吉とカジノで豪遊したり、クルージングしたりするのが夢だったのだよ」
「はぁ…」
 どんな夢だよ。
 見送りに立った9代目に引き攣りそうになる顔を、何とか笑顔に保たせながら綱吉は一礼して車に乗り込んだ。
 9代目は綱吉の車が見えなくなるまで、手を振って見送ってくれた。
 本当に、マフィアのボスだなんて思えない。孫馬鹿のじい様そのものだ。
 ………やはり夢かもしれない。
「夢じゃねぇぞ」
「リボーン」
「これから引継ぎや顔見せで寝ぼけてる暇はねぇからな。覚悟しとけ」
 存在は嫌になるほど非現実なくせに、言うことはいつも現実的なのだ。
「覚悟ねぇ…」
 言われて出来るものなら、とっくにしていた。
 綱吉に出来るのは覚悟ではなく、『諦め』だ。襲いくる出来事をなし崩しに受け入れるしかないのだ。
「そう言えばコロネロは?」
「知るか」
 ディーノは自分の居場所に戻ったとして(彼は綱吉が日本に居た頃からいつの間にかやっていていつの間にか居なくなっていた)ここまで一緒に来たコロネロの顔が無いのが少し気になったのだ。
 まぁ、見た目通りのただの子供では無いのだから綱吉の心配など必要も無いだろう。
 しかし、綱吉にただ一人…逃げ道を作る言葉をくれた相手だから。
 流れゆく窓の景色を見ながら、綱吉は考える。
 結局、高校は卒業できないのだろうか…リボーンが素直にイタリアから帰国させてくれるとは思えない。
 急に居なくなった綱吉たちに、山本は驚いていることだろう。
 …いや。
(そうか…リボーンが記憶を消したんだ…)
 親しい友人の中から、自分という存在が一切消失する。かなりくる現実だ。
 でも。
(山本を道連れにしなくて良かった…山本は、プロになってがんばって欲しい)
 そして、いつか活躍する彼のことをTVを見ながら応援するのだ。それくらいは許されるだろう。それだけが救いだな、と安心する綱吉を、リボーンの一言が叩き落した。



「山本の奴の記憶はそのまんまだぞ」



「……は!?」
 綱吉の横に乗り込んできたリボーンを思いっきり振り向いた。
「何だって!?」
「あいつはお前の部下だ。記憶消してどうする」
「部下っ…て…山本は部下じゃない!友達だって言ったじゃないかっ!?」
「うるさい。耳元で叫ぶな」
「……っ」
 怒る綱吉に対してリボーンはどこまでも冷静だった。
「もっとも、イタリアに来るかどうかは、あいつが決めることだがな」
「……」
 そうは言うが、リボーンが何も手を打っていないはずが無い。
 ぎゅっと拳を握る。
 綱吉がボンゴレの10代目などになってしまったために、被害は自分だけでなく周囲に広がっている。
 将来はプロで活躍することが確実視されている山本を…日の当たる場所とはかけ離れたマフィアという裏街道に関係させることなど、出来るわけが無い。
「…駄目だからな、リボーン」
「……」
「絶対、駄目だ。…オレはいいよ、オレは」
 ここまで来て、逃げられるわけが無いのだから。
 しかし、山本は違う。
 ……山本だけは、ちゃんと日の当たる場所で生きていて欲しい。
 綱吉の思いがわかっているだろうに、リボーンは何も言わず…車は滑り出すように動き出した。



















 綱吉に与えられた別荘はナポリの高台、海の見とおせる一等地にあった。
 いや、高台そのものが『敷地』であるらしい。
 びっちりと黒スーツを着込んだ守衛の立っている門を通りすぎて、綱吉が乗った車はしばらく走った。

「どうぞ!10代目っ!!」
「ありがとう」
 停車したと思ったら、タイムラグ0で下りてきた獄寺がドアを開く。
 こんな大層な車に乗ることも、ドアを人に開けてもらうのもそろそろ慣れかけていて恐ろしい…。
 気づかれないように小さく息を吐いた綱吉は足を下ろし、建物を振り仰いだ。
 9代目の屋敷とはまた違う、白壁の空と海の青が映える瀟洒な洋館だった。
 ぼうっとそれを見ている綱吉の脇をリボーンが通りすぎる。
「さっさと来い、間抜け面晒してんじゃねぇ」
「っ悪かったな!」
 全く口の悪い…綱吉が口を尖らせ、小走りにリボーンに追いつくと…玄関の扉が一人で内側から開いた。
(…自動?)
 そんな訳が無い。



「よぉ!待ちくたびれたぜ!」

 現れたその人に、綱吉は薄茶の目を見開いた。
 長身の、この陽気なナポリによく似合う笑顔を浮かべた、その…・・










「や、ま、もと…」


 喘ぐように、綱吉はその名を紡いだ。