主よ 人の望みの 喜びよ 3


     後継者。

 その言葉に、綱吉は眩暈を覚え、体を揺らがせる。
 だが獄寺が支えようとした瞬間に、立ち上がり叫んだ。



「オレは、十代目になるつもりはありませんっ!!」



 静けさが室内を覆った。
 9代目の護衛たちは、綱吉を驚きの目で見つめ、執事は供応の手を止めた。獄寺でさえ顔色を青くする。ボンゴレファミリーにおいて、9代目に楯突く人間など初めて目にするのだろう。それほどに彼らは9代目に対して忠誠を誓っている。
 変わらなかったのはリボーンと、綱吉の目の前に座る9代目の二人。リボーンは無表情のまま口を開かず、9代目は相変わらず穏やかな微笑を浮かべたままだった。

「オレは…遡れば初代の血を引いているかもしれません。でもこの容姿をご覧になってわかるように、そんなことわからないくらいに日本人です。オレは、日本人の普通の家庭で育ってきました。…オレは、普通の何の取り得も無い一般人です。あなたの後を継ぐなんて…出来ませんっ」
 ぐっと胸に手を当て、ずっと言えずにいた言葉を吐き出す。
「綱吉。座りたまえ」
「嫌ですっ!」
 執事があんぐりと口を開けた。
 綱吉はそんなことなど構いもせず、今まで見せたことの無いような強い視線で9代目を睨むように見つめる。
「オレはダメです。オレなんかじゃなくて、もっと他の相応しい人を選んでください。…それを言いたくてここまで来ました。十代目になるためじゃない」
 言い切った綱吉は糸が切れたように、ソファにすとんと座った。
 静まりかえった室内に、ぷっと破裂音がした…と思ったら9代目が声をあげて笑っていた。

「いやいや見事だ、リボーン」

 拍手喝采。
「よくぞここまで育ててくれた。さすがはリボーン」
「ふん」
 リボーンは帽子の縁を掴んで押し下げそっぽを向く。
 綱吉には何が何だかわからない。ぽかん、と9代目の笑顔を見るだけだ。
「綱吉。自分のことは自分が一番わからない、とは言うが…お前はまさにそれだな。お前が相応しくない?一般人?この状況でこの私にそれだけの口をきける度胸がある人間なぞ、それこそ他に居はしない。リボーンから色々報告は受けていた。銃も鞭もナイフも人並み以上に使いこなせるようになったことも知っている。だがそんなもの探せばお前の言うとおり五万と居る。だが、一番大切なのは心だよ。お前のその中心にある核。それこそが私が後継者に望んだものだ」
 綱吉は、呆然と…だが、首を横に振る。
「オレは…オレの中にそんなもの…」
「お前は仲間を大切にする。見捨てない。マフィアというのはね、綱吉。ファミリーなんだ。家族なんだよ。家族のことを我が子のように見守るのがドンとしての役目だ」
 ぎゅっと綱吉は両手を握り締める。流されやすく、許容量の広い綱吉だったが…自分の意志で決めたことは頑固なまでに曲げない。変えない。
「…それに私にはもうあまり時間が無い」
 何気なく零された9代目の言葉に、うつむいていた顔を綱吉がはっと上げた。


「末期癌なのだよ。医者にはあと半年生きられるか否か、と宣告された」


 綱吉は何の言葉も紡ぐことが出来なかった。
 己の近時に迫る死をこれほどに穏やかに語れるものなのか。
 驚愕の嵐が吹き荒れる綱吉に構うことなく9代目は話を続ける。
「もう少し生きたい気もするが…まぁ、私は私の人生に悔いは無い」
 強い人だ、と思った。
 多くの部下たちが忠誠を捧げる男。マフィアのボスなんて思えない柔らかな雰囲気と緑色の瞳に浮かべられる優しい光。時に厳しく、時に優しく…彼はまさに理想の『父』では無かろうか。
「いや、もし一つあるとすれば…」
 9代目が綱吉を見た。
「後継者を決められず…去ってしまうことかもしれないな」

      卑怯だ…

 そんな悲しい寂しい目で見られては、綱吉には目を逸らすことも出来ない。
「次々と後継者を失ってしまったことも辛いことだった。もし綱吉が居なければ、ボンゴレは抗争の果てに消えていたかもしれない。綱吉がいてくれてよかった。罪深い私に、最後の最後で神が与えた救いだと私は思ったよ」
「っオレは、そんな…そんなふうに思われるような…っ9代目!?」
「うっ」
 突然胸を押さえ、苦痛に耐えるように眉を寄せた9代目に綱吉が目を見開く。
 9代目は胸元から小さなカプセルを取り出すと口に含んだ……だんだん息が落ち着いていく。
「…醜態を見せたね。この体もかなりガタがきているようだ」
「9代目……」
「老いには勝てないということだ…そんな顔をしないでおくれ、綱吉。せっかくこうして会えたのだから、笑顔を見せておくれ」
 こんなに綱吉を翻弄しておいて、無理なことを言う。
「そうだ。せっかく遥々海を越えイタリアに来たのだ。綱吉のためにパーティを開こう」
「は?」
 いきなり話が飛んで、目を白黒する綱吉に構うことなく9代目は次々と指示を出していく。
「え、ちょ…っ」
「綱吉は服を用意しなくてはいけないな。リボーン頼んだぞ」
「了解」
「リボーン!?」
 腕を引っ張られ、屋敷を出て車に乗せられる。当然のように獄寺とコロネロもついて来ていた。
「な…いったい何なんだよ!オレ、9代目に断りいれたらすぐに帰るつもりだったのに!!」
 綱吉の抗議をリボーンは無視する。
「10代目。せっかくっすから是非イタリアを楽しんで行ってください!」
「獄寺君…あ、そっか。獄寺君にとっては故郷だもんね。家に帰ってくる?」
「さすが10代目!お優しい…っ!!いや、でもオレは10代目のお傍に居ますから!」
 相変わらずな獄寺に、綱吉は苦笑してしまう。
(変わらないのは獄寺君だけ、なのかな……)
 リボーンでさえ、イタリアに来てからというもの大人しくて調子が狂う。
 綱吉の内心などわかっているくせに、答えようともしない。
「着いたぞ」
 車はこじんまりした古びた造りの店の前で停まっていた。
 いった何の店なのか看板が出ていないのでわからない。中の様子も覗けない。
 ぎっという音を立てて、扉を開けて入っていくリボーンに続く。
「いらっしゃいませ、リボーン様」
 柔らかなトーンの声が出迎えた。
「連れてきた」
「お待ちしておりました」
 初老の紳士に丁寧に挨拶され、綱吉は戸惑う。
「初めてお目にかかります。9代目の衣類全般仕立てさせていただいておりますゼノアと申します」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 まだよくわかっていない綱吉に微笑んで、綱吉に断り腕や足の長さを計りはじめた。
「まだお若いですから、生地は柔らかめのモヘアでよろしいですか?」
「ああ」
 何のことかわからない綱吉の代わりにリボーンが答える。
「デザインのほうは、シングルで…どのように致しましょうか?」
「まかせる」
「ありがとうございます」
「夕方までに屋敷のほうへ届けてくれ」
「はい」
 次行くぞ、と綱吉は追い立てられる。
「リボーン!」
「うるさい、時間が無いんだ」
 綱吉の不満を一刀両断して、次に訪れたのは靴屋。次は床屋。その次は…

 散々連れまわされて、綱吉は疲労してぐったりと革張りのクッションに身をもたれさせる。
 髪をかきむしりたい衝動に襲われるが、その度にリボーンの鋭い視線が突き刺さる。
 ああっもう嫌だ!
 綱吉の我慢も限界に来ていた。

「コロネロ!コロネロ!」
「何だコラ」
 獄寺はともかく、何故か綱吉にずっと付き合っているコロネロの名前を連呼すると、すっと伸ばした手でコロネロを捕まえ…抱き寄せた。
「!!じゅ、10代目!?」
「!!!」
 思いがけない行動に、抱き寄せられた当のコロネロも目を丸くする。
 綱吉はそのままぎゅっとコロネロを抱きしめた。
「……何の真似だ、ツナ」
 地を這うおどろおどろしいリボーンの声がする。

「オレは、もうコロネロと一緒に帰る!」
 ますますぎゅっとコロネロを抱きしめた腕に力を入れる。
 赤ん坊の頃とは違い成長したコロネロは綱吉の胸のあたりまで身長がある。微笑ましい、なんて通り越してちょっとしたラブシーンだ。…綱吉にその自覚は皆無であっても。
 綱吉の危機回避能力に対する本能は冴え渡る。
 この場でリボーンに対抗できる相手がコロネロ一人だと本能で察しているのだろう。
 ちっと舌打ちしたリボーンは、物騒な目つきでコロネロをねめつけた。
「ダメツナなんかにいいようにされてんじゃねぇぞ」
「うるせぇコラ」
 コロネロだって驚きだ。いくら不意をつかれたとはいえ、アルコバレーノの一人である自分が綱吉にいいようにされるなど……癪ではあるが、確かにリボーンの教育は綱吉を成長させている。
「車、停めろよ。リボーン」
「いい気になるなよ」
 一触即発の空気が漂いはじめる車中。
 コロネロは痴話喧嘩に巻き込まれた気分に襲われた。
「オレを日本に帰して。ちゃんと高校卒業して大学行って、可愛いお嫁さん貰って…そんな普通の人生送るんだから!」
 泣きそうな声だった。
 綱吉は、そう口にしながらも…本当はもう気づいているのだ。日本に帰れないことを。
 帰してなど貰えないことを。
 普通の人生なんて、目の前の悪魔=リボーンが現れた時点で消えうせ、影も形も存在しないことを。諦め悪く足掻きながら、それでも彼は知っている。
 もう、何もかもが変わってしまったことを。

「綱吉」

 リボーンの声に、びくんっとコロネロを抱く腕が震えた。
 振り仰いだ綱吉の顔が泣きそうに歪んでいる。
 何故だろうか、コロネロの口から自分でも思いも寄らない言葉が零れた。



「帰してやろうか?」



 綱吉が目を見開き、コロネロを凝視した。
 リボーンの目に殺気が満ちる。

「コロネロ…?」
 どうして?
 綱吉の目が問い掛ける。
「気まぐれだ」
 そう、気まぐれだった。
 そうしてやりたいような…どこから齎されたのかわからない不可思議な感情に名前など無い。
 綱吉が、二度…瞬きした。



「…ありがとう」