主よ 人の望みの 喜びよ 2
リボーンの睡眠学習が果たして効いたのか、何とか・・・途中獄寺が魚雷を発射したりなんかして、不審艦としてどこかの海軍に追いかけられたりもしたが・・・目的地であるイタリアのナポリの港へ到着することが出来た。
潜水艦を浮上させ、ハッチを開けた外には青空が広がっている。
奇蹟の生還を果たした人の気分を綱吉はしみじみと味わった。
「沢田綱吉様ですね」
流暢な日本語に綱吉が振り向けばいかにもな黒塗りの車が止まっている。
「9代目からの迎えだ」
黒服の男がリボーンに会釈する。綱吉もぺこり、とお辞儀しリボーンに続いた。
「十代目、失礼します」
乗り込もうとした綱吉を遮って獄寺が扉を開け、車内を確認する。
そして、振り返って綱吉とリボーンに頷いてみせた。
「こっちも大丈夫だぞコラ」
いつの間にか前方に回っていたコロネロがボンネットの上から声を掛ける。
いったい何をやっているんだろう、と首を傾げる綱吉にリボーンはいつもと変わらない様子で言った。
「十代目候補が次々殺されたのを忘れたのか。車に小細工するなんざ暗殺の初歩だ」
「………」
綱吉は物凄く乗りたくなくなってしまった。
「さっさと乗れ」
「…わかったよ」
それでも9代目と会わないことには何も始まらない…というよりは終わらない。
綱吉の知らないところで始まり、なし崩し的に巻き込まれているゲームから降りることのできる唯一のチャンス。これを逃がせばもう後は無い。
綱吉を真中に右を獄寺左にコロネロ。
助手席にリボーン。運転席の黒服はきっとボンゴレの一人なのだろう。
車内はありえないほどに広く、脇にはワインクーラーまでついているようだ。
それにコロネロが手を伸ばす。
「ちょ…っお前まだ未成年だろ!」
あまりに自然な仕草にスルー仕掛けたが、綱吉が慌てて止めた。
「それがどうした?」
「どうしたって…アルコールなんて体に悪いだろ!成長しなくなるぞ」
主張する綱吉に、コロネロははん、と鼻を鳴らした。
「日本人と一緒にするな。イタリアじゃワインなんて水がわりだぞコラ」
「でも水じゃないだろ。こっちのミネラルウォーターにしときなって」
強引にコロネロの腕にあったワインを抜き取り水を渡す。
不満そうな表情を浮かべたコロネロだったがそれ以上抵抗することなく、蓋を開けそれに口をつけた。
その様子をフロントガラスから見ていたらしいリボーンがくつりと喉を鳴らす。
アルコバレーノ、その名を聞くだけで大の大人が震え上がる。
だが綱吉はリボーンにもコロネロにも、…誰に対しても態度を変えることが無い。
綱吉は自身が思っている以上にマイペースな人間だった。
「そういえば、コロネロ。マフィアランドを離れていいの?」
「臨時休業中だコラ」
「ふーん」
綱吉はそういう日もあるんだろうな、と暢気に思う。
彼はマフィアランドが基本的に年中無休の24時間体勢であることを知らない。
そのマフィアランドが休業される意味を。
知っていたならば、死ぬ気になってもイタリアになど来なかっただろう。
滑るような走りの車に乗せられたどり着いたボンゴレ9代目の屋敷は、古めかしい門構えながら各所に据付られている監視カメラと日本では考えられないような当然のように銃を構えてガードする男たちの数により、セキュリティには万全を期していることが伺えた。
9代目に許可されないものは例え鼠一匹であろうと容赦はされない。
そんな重層なゴシック様式の洋館を、綱吉はと言えば畏れるよりも呆気に捕られ『凄いな』と半ば観光気分だった。これから9代目とサシで話し合わなければならないことなど忘れ果てているに違いない。
「到着致しました」
スロープから続く玄関に車が停車する。
リボーンはさっさとドアを開けて飛び降り、後部座席では獄寺が「さぁどうぞ10代目!」と誰よりも早く降車して、ドアを開けて待っている。今更のことながら、いつまでもちっとも変わらない獄寺の態度に綱吉の口元に微笑が浮かんだ。
「ありがとう、獄寺君」
降りると、赤い絨毯が敷かれていて…ごくありふれたスポーツシューズで汚してしまうのが躊躇われる。リボーンに着の身着のまま、何の用意もさせてくれる暇なくここまで連れて来られた綱吉の服装は、TシャツにGパンというラフすぎる格好だ。もっとも、この場に適した服に着替えろと言われても困ってしまっただろうけれど。
「お待ち申し上げておりました」
開かれた玄関扉の脇で、深々と頭を下げて出迎えられる。
それについつい会釈を返してしまう。
「9代目は?」
「ご案内申し上げます」
二階に続く階段を昇り、広い廊下を奥へと進む。
高い天井、広い屋敷、無数の扉。壁に掛かっているのは綱吉さえ知っているような画家の絵で、恐らく本物なのだろう。窓の桟に施されている彫刻さえ、芸術品のように細かい。
そして静かだった。
綱吉には自分たち以外の気配なんてわからなかったし、誰かとすれ違うことも無い。
―――― 寂しい。
ふと、綱吉は思った。
「失礼致します。お客様をお連れ致しました」
綱吉は我に返り、目の前の扉を眺めた。
この扉の向こうに9代目が居る。
綱吉を10代目候補に選び、リボーンを家庭教師につけた人が。
ごくり、と唾を呑み拳を握り締めた。
「入れ」
穏やかな声だった。
光が差し込む大きな窓を背に、その人は立っていた。
「よく来たね、綱吉」
暖かな包みこむような声は、聞く者に安心感をもたらす。
リボーンの言ったように、日本語の発音も驚くほどに流暢だった。
「リボーンもご苦労だった」
リボーンが僅かに帽子の鍔を下ろした。
普段は煩い獄寺も綱吉の背後で大人しく、コロネロに至っては完全に部外者の顔で入り口付近に立っている。
「立ったまま話も無いだろう。こちらにおいで」
9代目に促されるまま綱吉は革張りのソファに腰を下ろした。
リボーンと獄寺はその背後に立ち、コロネロは動かない。
「甘いものは好きだったね」
「え、あ、はい」
もう60を超える年だと言っていたが矍鑠とし、品格が漂う紳士とはかくあるべしと言った姿だ。とてもイタリアマフィア最大勢力を誇るボンゴレのボスとは思えない穏やかさ。
特に綱吉に対する姿は、まるで孫可愛い祖父そのものだ。
そんな相手に、当初抱いていた緊張を僅かに緩めた綱吉は、さてどうやって話を切り出そうかと迷っていた。
「失礼いたします」
「あ、どうもありがとうございます」
先ほどここまで案内した執事が綱吉の前に紅茶を供する。
ワゴンには色とりどりのケーキが載っていた。
「どれでも好きなものを選ぶといい。私のお勧めはやはりティラミスだね」
じゃあそれを、と流されやすい綱吉は9代目の勧めに従い給仕してもらう。
「さぁ、食べてごらん」
綱吉は銀のスプーンでティラミスを一欠け掬い、口に放り込んだ。
「っうまい!」
濃厚なのに、さらりと舌の上で溶けていく。チーズとエスプレッソが絶妙に混じりあい、それにブランデーが色を添える。さすがに本場は違う、とうなってしまう。
ティラミスは『私を幸せにして』という意味があるらしいが、まさしく食べたものを幸せにしてしまうほど美味しい。
目をぱちぱちさせて、味を堪能する綱吉を9代目は微笑ましく見守っていた。
その視線と、ちらりと上がった綱吉の視線がかちあった。
「あ……」
ついつい夢中になって、本来の目的を忘れそうになっていた。
「どうかしたかい?」
「あ、あの……は、初めまして」
すでに出されたものを食べてしまってから初めましての挨拶もどうかと思うが、今まで綱吉が口を挟む間が無かったのだ。9代目が少し目を丸くし、その口元に笑みを刻んだ。
「ああ、そうだね。直に会って話しをするのは初めてだったか……君は私のことをあまり知らないだろうが、私は君のことをよく知っているんだよ。10年くらい前だったかな……仕事の関係で日本に立ち寄ることがあってね。そのときに私は綱吉の姿を初めて目にしたのだよ」
「そう、なんですか……
10年前といえば、まだ綱吉が小学生の頃だ。
「たぶん家に帰る途中だったんだろう。道路の脇に捨てられていた猫に、背負っていた鞄からパンを出して与えていた」
「あ……
そう……幼い綱吉は、捨て猫や捨て犬などを見かける度にそうして給食の残りものをやっていた。もし家に連れて帰って飼おうと思えば、たぶんそれを強く望んだのなら、母親も父親も強くは反対しなかっただろう。母親などむしろ喜んだかもしれない。
だが、綱吉には……ダメツナ、と呼ばれていた自分には、たとえ拾って帰ったとしても最後まで面倒を見る自信が無かったのだ。だから、いつもそうやって気まぐれに餌を与えるだけで……今、考えるならば、残酷な行為だった。あれは綱吉のただの自己満足に過ぎなかったのだ。
「君は優しい子だ」
「そんな……ただの無責任な子供です」
首を振る綱吉を見る9代目の視線は依然として穏やかなまま。
「たとえ一時しのぎであろうと、与えられたぬくもりを彼らは嬉しく思ったことだろう」
「……」
「そんな綱吉だからこそ、私は私の後継者にふさわしいと思ったのだよ」
伏せていた視線を綱吉は上げた。
「あ、の……オレは、」
「ん?」
9代目の眼差しは優しい。それなのに、どうしてこんなに息苦しいのか。
「オレは……オレには、無理、です」
「ああ、もちろん。何も知らぬままマフィアのボスになるなど到底無理なことだからね。そのためにリボーンを家庭教師としてつけた。報告では、ボンゴレの総領にふさわしい成長をしたと聞いている。私は嬉しく思っているのだよ」
え、と綱吉は首を傾げた。
何かが、矛盾している。
「ようこそボンゴレへ。我が後継者、綱吉」
目の前で広げられた腕に、眩暈がした。