ご趣味は?


 趣味は?と尋ねられたならば、フロドは迷うことなくまずは、『読書です』と答えることだろう。
 幼い頃にビルボに引き取られてからというもの、フロドの生活は本とは切っても切れない関係にあり、 時にはホビットではとても信じられないことながら、寝食さえ忘れることだってあったのだ。
 そのたびに、サムには青い顔で『大変ですだっ!大変ですだっ!』と騒がれたものだ。

 という訳で、ここ裂け谷においてもフロドが真っ先に確認したのは書庫の場所だった。
 シャイアの袋小路屋敷にもビルボが旅の間集めた本が多くあったが、エルロンドの館の書庫にはさすがに 長い時を生きるエルフだけあって、古今東西の稀書が数多く置かれていた。
 ナズグルに襲われて出来た傷のことも忘れ、フロドが至福に包まれてしまったのも無理は無い。
 どれもこれも手を伸ばして読んでみたいが、そう長居するわけにもいかないのでどうしても選ばなければ
 ならない。フロドにとっては究極の選択にも等しい―――…

「どうしよう」

 脚立に足をかけたまま、フロドの首は反り返って本棚を見上げている。
 エルフ使用の本棚は、ホビットには些か……いや、かなり大きすぎるのだ。

「これは絶対に読んでみたいし、あれも……こちらも捨てがたい……」
 エルフ語で書かれた背表紙を睨みつけながらフロドはうんうんと唸っている。
 漸く床離れしたフロドにはこの体勢はかなりきついはずだが、そんなことは脇に置かれている。
 お目付け役のサムは運悪くメリーとピピンに引きずられてキノコ狩りに出かけたばかりだ。


「どうしました……っと」


 いきなり掛けられた声に、反射的に振り返ったフロドは見事にお約束通り脚立から足を滑らせた。
 それを支えたのは、ここ裂け谷の主であるエルロンドの右腕、グロールフィンデルだった。

「グロールフィンデル殿……す、すみません」
「本に夢中になるのは君らしいが、気をつけなさい。怪我でもしたら大変だ。私も寿命が百年は縮んだ」
「は、はい。申し訳ありません……あの、もう大丈夫ですから」
 グロールフィンデルに抱き込むように支えられたままのフロドが戸惑って見上げる。
「フロド」
「は、はい?」
「約束したでしょう?もう忘れたのかい?」
「……は?」
 ぽかんと口を開けるフロドの額に、グロールフィンデルは口づけを落とした。
「私のことは、ただ名前で呼んで欲しいと言ったはずだけれど?」
「!?えと……はい」
 ぽっと頬を染めたフロドは、うろうろと視線を徘徊わせる。
「どれだい?持ち上げてあげるから取るといい」
「え……あ、えーと……」
 親切な申し出ながら、それが決まらないからフロドはここで唸っていたのだ。
 困ったように眉を寄せるフロドに、グロールフィンデルは微笑を刻み、腕を伸ばして書棚か2,3冊取り出し、 それをフロドへと渡した。
「私のおすすめはこちらかな。まだ読んでいなければいいのだが」
 優しく微笑まれ、フロドも戸惑っていた顔を嬉しそうに崩れさせた。
「はい、ありがとうございます。どれにしようかと迷っていたところです。お渡ししていただいた本はどれもまだ 目を通したことのないものばかりです」
「それは良かった。私たちエルフはあまり自身のことを記録に残したりはしないが、それは特別なものでね。
 エルロンド卿が3000年ほど前に書かれたものだ」
「3000年!?」
 フロドの目が丸くなる。短命なる生き物にとってそれは気の遠くなるほど昔のことだ。
 そこで、ふとフロドは思い出した。
「もしや、サウロンを倒した後に書かれたものですか……?」
 3000年前といえば、第三紀がはじまったころだ。
「さすが私のフロド。かの時の戦いについて詳細に書かれている」
「戦いについて……」
 フロドの顔が曇る。
 争いごとを好まないのはホビットの性。それ以上に優しい性格のフロドは誰かが傷つくということが、耐えられ ないほどに厭わしい。
「ああ、どうか。そのような顔をしないでおくれ。―――君には少々酷な内容かもしれないが、敵を知るという ことはとても大切なことなのだ……私のフロド。君は敵にさえ情けをかけ、許してしまうだろうが」
 フロドの滑らかな頬を形のいい手が包み込む。
「グロールフィンデル……」


 ごほんっ

 グロールフィンデルの顔に見とれていたフロドは、咳払いにはっと我に返り慌てて入り口に視線を向けた。

「やぁ、フロド」
 手を振るのは、闇の森の王子レゴラスである。
 全く悪びれた様子の無い、出来すぎたほどの清清しい笑顔である。
「これは、王子。このように薄暗いところへどうされました?あなたは本などには全く興味が無かったと 記憶しておりますが」
「どうも、グロールフィンデル。確かに本には全く興味は無いが、ここには今私の興味を一番に引いている ものがあるのでね」
 優雅なエルフ語でのやりとりは、音だけ聞いたならばうっとりするほどに素晴らしいが、その内容ときたら 不穏過ぎて、冷気が漂うほどだ。
「フロドをこちらへ渡してもらえるかな」
「王子の手を煩わせるような真似はいたしかねます」
「「……。……」」
 笑顔の応酬は、ギャラリーがいたならば即全てを投げ出して逃げ出しただろうほどに恐ろしい。

「あの……」

「何だい、フロド?」
「どうしたんだい?」
 二人の間に挟まれたフロドは、身に余る本を抱えて困ったように首を傾げた。
「申し訳ありませんが、私は本を読みたいので下ろしていただけますか?お二人は何やら積もるお話も あるようですし、どうぞここを使って下さい。私は部屋に戻りますから」
「そんなフロド、遠慮しなくていいのだよ」
「そう、何も私たちは……」
 互いに相手に用があるのではなく、フロドにこそ用があるのだから。
「ありがとうございます。お気を使っていただいて……とても嬉しいです」
 ぽぉと頬を染めたフロドはそれはそれは食べてしまいたいほどに愛らしく、エルフ二人は即殺された。
「では、失礼いたします」
 ぺこりと頭を下げたフロドは、本を抱きしめて去っていく。
 今、フロドの頭の中を占めているのは、ただただ抱えている本にはどんなことが書かれているのか。
 それに限られる。実のところエルフ二人は視界にさえ入っていない。
 恐るべし、書痴。



『フロド、困ったときはね。本を読むといい』
『本、ですか?』
『そうさ。本には大概のことが書かれている。正しいことも間違ったこともね』
『……ビルボ。それだと余計困ってしまいます』 
『大丈夫。フロドならばちゃんと答えを見つけることができるよ』
『そうでしょうか?』
『もちろんさ』






「……ビルボ。さすがに今度はちゃんと答えを見つけられるかどうかわかりません。でも、自分で選んだことに 後悔だけはしたくありません。だから……精一杯やれるだけのことをやってみるつもりです」

 フロドはそっと、本の表紙を撫で、1ページ目を開くのだった。