世界は謎に満ちている



 最近寒いな、今日は特に寒いな……本当に寒いな。
 だんだんと寒さが厳しくなる冬のこと、秋生はぼんやりとそんなことを思っていた。
「ちょっと……秋生!」
「ん?」
 大学で顔を合わせたセシリアが目を吊り上げている。
 最近は特に何も騒動起こしてないはずだけどな、と首を傾げる。
「顔が赤いわよ。……て、熱があるんじゃない!?」
 額に当てられた手がとても冷たくて気持ちよい。
「あー、それで。何か朝からぼーとするなあって思ったんだ」
「思ったんだ、じゃないでしょ!」
 さっさと家に帰りなさいっ!いや病院へ、と慌てるセシリアに秋生は笑ってしまう。
「何笑ってんの!」
 いつもはビンセントのことを過保護だ何だと罵るくせに、こういう時の反応はよく似ているとおかしくなったのだ。
 セシリアにこんなに怒られたらいつもの秋生なら情け無い表情をしてごめんねと謝るのだが、半分熱に浮かされている頭は正常な反応をしない。それが熱の高さの証明で、ますますセシリアを焦らせる。
 これは一人で帰らせるととんでも無いことになる。
 一瞬でそう判断したセシリアは通りがかった学友に授業を欠席することを言付けて秋生の手を引き大学を後にした。




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「インフルエンザですね」

 医者にそう通告されて、秋生の熱はますます上がって40度を越えた。
 点滴を打たれ、薬をもらって……帰宅したのはマンションでは無く、ビンセントの屋敷だった。
「ビンセントが帰ったらバトンタッチするから、良い子で寝てなさい」
 秋生は節々が痛く、熱で朦朧としながらセシリアに言われるがまま布団の中で大人しくしている。
 食欲も無くて、せめて水分だけはとりなさいよとスポーツドリンクが枕元に置かれている。
 香港に来てから、こんなに体調が悪くなるのは初めてだ。
 秋生の体調管理はビンセントが目を光らせているから。今回はタイミングが悪くビンセントの出張が重なったため、まんまと何処かで秋生はインフルエンザを貰ってきてしまったらしい。
 息をするのさえ、身動ぎするのさえしんどい。
 ただそんな症状も久しぶりで、少し日本のことを思い出す。
 父一人子一人だったから、暢気な秋生とてそれなりに気を張っていて大きな病にかかることは無かった。
 風邪だってあまりひかない健康優良児だったが、それでも周囲がひけば貰ってしまうこともある。
 そんな時はいつもより少しだけ早く帰ってきた父親が心配そうに秋生の看病をするのだ。それが少し嬉しくて……

「ミスター工藤……」
 
 囁くような低い声が薄暗い部屋に響く。
 秋生が目を開けると、心配そうなビンセントが顔を覗き込んでいた。
「お休みのところを申し訳ありません。熱が高いと聞きました。お労しい……」
 ビンセントの大きな手がそっと傷つけることを恐れるように秋生の額に触れる。
「……お帰り、ビンセント……ごめん、ね」
「何を謝っておられるのか……どうぞお心安らかに、ずっと傍についております」
 秋生はそっと笑う。そんなことしなくて良いと言ってもビンセントは聞かないだろう。
 それがわかるくらいには、付き合いも長くなった。
「どうぞお休み下さい」
 額に置かれた手からすーと何かが体の中に入ってきて、少し体が軽くなった。
 こうして風邪をひいても自分を気遣って、傍に居てくれる人がいる。
 体は辛いけれど、何とも言えない幸福感に包まれて秋生は深い闇の中へ意識を落としていった。





 その日、香港は記録的な大雪に見舞われたのである。