大人の遊戯


「えーと、だから・・・僕はお金は持ってないんです」
 秋生は気弱に困ったように、相手に訴えた。




 再び香港にやってきてから一ヵ月。
 街にもだいぶ慣れてきて”お守り”が居なくても一人で外出してもよろしい、というビンセントの許可 に早速秋生は銅鑼湾へ遊びにやって来ていたのだが。
 犬も歩けば棒にあたる、秋生あるところトラブルあり。
 秋生は人相の悪い男たちに囲まれていた。
 どうやら秋生からの”ほどこし”を受けたいらしい・・・つまりはかつあげだ。
 いつもなら、僅かばかりではあるが小銭を持っているのだが生憎今日は本当に一銭も秋生は 持って居なかった。家を出たときには確かにあったのだが、使ってしまったのだ。
 ほとんどの乗り物はオクトパスカードが利用できるのでお金はいらないし、まぁ無いとは思うが 高価な買い物をするときにはビンセントに預けられたというか、押し付けられたカードがある。
 というわけで、今の秋生は無一文なのだ。
 それを男たちに訴えたのだが、どうも相手は聞く耳を持ってくれないらしい。

「ぐだぐだ言ってねーで、さっさと出せよ!」
 ナイフをちらつかせる。
「あぁ?死にてーのか?」
 そうでなくても怖い顔をさらに歪めて秋生を脅す。
 
 (どうしろって言うんだよ・・・)
 このあたりはヘンリーの縄張り近くで、余計な騒動も起きないだろうとやってきたのにこれでは。
 (またしばらく一人で外出禁止かも・・・)

 想像した秋生は、ビンセントの説教とセシリアの怒った顔を(・・秋生に付き合わされるのは彼女と 決まっている)思い出して、心の中でため息をついた。


 『いい、秋生。あなたは何かっていうとトラブルに巻き込まれやすいんだから、そういうときは 抵抗せずに、まずは逃げることを考えなさい。そのうち助けに行ってあげるわ』


 そう言ったのはセシリアだったが、逃げるも何もこう囲まれていては逃げようがない。
 護身術の一つでも習っておくんだったと、後悔しても後のまつり。
 仕方ない、と意を決してセシリアに助けを呼ぼうと口を開きかけた秋生に、チンピラの片方が何かを 思い出したように顔を歪めた。

「お前・・・?」
「どうした?」
「いや・・・こいつの顔どこかで」
「はぁ?こいつの顔・・・?」
 妙なことを言い出した片割れに、残りのほうも秋生の顔をまじまじと睨みつけてくる。

「どこだった・・・・け・・・・・・・・・あっ!!!!」
 男の目が零れ落ちそうなほどに見開かれる。
「思い出したのか?」
「おま・・おま・・・ちょっ・・・っ!!」
 目を見開いたままの男が秋生の顔を指差して、大哥の大哥の・・と連呼する。
「あぁ・・・・?・・・あぁっ!!!!!!!!」
 するともう一人の男も、何を思い出したのか同じように目が飛び出そうになる。
 顔色は二人とも蒼白だった。
「?????」
 一人事態のわからない秋生は首をかしげる。
 そんな秋生に男たちは手に持っていたナイフを投げ捨てると、いきなり地面に伏せて頭がこすり そうに深く秋生に頭を下げた。

「も・・・申し訳ねぇですっ!」
「すいやせんっ!・・まさか、大哥のお身内とは知らず・・・っ!!」

 (大哥?・・・・・・・あ、もしかしてヘンリーのことかな)

「えーと・・・大哥ってヘンリー?」
 口に出した名前にますます男たちは頭を地面にすりつける。
 どうやら、秋生が想像した以上にヘンリーは悪名を馳せている(?)らしい。
 四聖獣が揃ったときには他が強すぎて圧倒されているので、あまりそう見えないだけに不思議な 気がした。
「どうか大哥には内密に・・・っ」
「お願いしますっ!!」
「え、いや・・・そんな・・どうか、頭をあげて下さい」
 かつあげにいきなり頭を下げられては秋生でなくても困惑する。
 秋生はごく平和なふつーの平凡な日本人なのだ・・・表面上は。
 秋生に許してもらえると思った二人は何度も秋生に頭を下げつつ、逃げるように立ち去った。
 いったい何だったのか・・・。
「ま、いいか」
 大事には至らなかったし、と秋生は心の中で呟いた。
 大物なのか、馬鹿なのか・・・ここが判断に困るところではある。





 その後は何事もなく平和に過ごした秋生は、パークレーンホテルの前に居た。
 ヘンリーがどこかへ連れていってくれるらしい。『坊やも偶には息抜きしたいだろ?』と言っていた のだが、いったいどんな息抜きなのか。
 楽しみ半分、不安半分・・・ヘンリーの姿が現れるのを待っていた秋生は通りの向こうから遠めにも わかる大きな黒い人影がやって来るのを視界に入れた。
 向こうはすでに秋生に気づいていたらしく、秋生の視線に気づくと軽く手をあげる。
 秋生も笑顔を浮かべた。

「よぉ、お守りなしだな」
「うん、やっとね・・・ところでどこへ連れて行ってくれるの?」
「ま、ついてからのお楽しみだ」
 ヘンリーは笑うと、ついて来いと秋生を促した。
 パークレーンホテルの裏通りへと進むと、狭い路地に車が所狭しと並び人々が頭上を注意しながら 巧みに歩いていく。慣れていない秋生は時折、そんな人々にぶつかりつつヘンリーの背中を追った。
「ここだ」
「ここ?」
 ヘンリーが指差したのは並び立つビルの一つ。宝石店が二つ並んでいてる。
 秋生は首をかしげた。・・・宝石など秋生には全く縁が無い。
「ああ、ここの上だ」
 奥のエレベーターホールに進み、秋生が乗り込むのを確認するとヘンリーは15階のボタンを押した。
「・・・『翡翠夜總會』?」
「このビルは俺のビルで、この店と下の酒楼は直営だ。上に事務所兼ねぐらもあるから便利だぞ」
「へぇ」
 秋生は黒社会といえば抗争ばかりしているのを想像していたが、こんな風に商売みたいなことも しているんだな、と妙なところに感心した。
 僅かな会話の間にエレベーターは15階に到着した。
 目の前にはいかにも香港らしい、金色のバーがついた扉があり立っていた女性がヘンリーに気づ いて慌てて駆け寄ってくる。
 (うわ美人っ!)
 すっと鼻梁が通った香港美人。切れ長の瞳が少しきつい印象を与えるが、美人であることは間違い ない。秋生より3,4歳年上だろうか。

「俺の客だ。粗相の無いようにな」
「はい。ようこそいらっしゃいませ」
「あ、はい・・・どうも」
 秋生の間抜けた返事にヘンリーはそっと笑いを漏らした。
「美人だろ?ま、今夜は楽しんで行けや」
「え!?」
 秋生の肩をぽんっと叩いて・・ヘンリーにとっては軽くだったのだろうが、危うく秋生は前につんのめり そうになった・・・店の奥へ行ってしまった。
 秋生は途方に暮れる。いったい・・・どうすれば?
「こういうところは初めてですか?」
 当惑する秋生に先ほどの美人が笑顔を浮かべて話しかけてくる。
「あ、はい」
「くすっ・・・オーナーのお客様だからどんな方がいらっしゃるのかと思ってましたけど。あんまりお可愛 らしいから驚きました。お席はカウンターがよろしいかしら、それともBOXが?」
「あ、カウンターでいいです」
「それではこちらへどうぞ。何をお飲みになりますか?」
「えーと・・・ジンを」
 畏まりました、と女性は秋生の隣に座ってカウンターの中に居るウェイターに注文を繰り返した。
「私は玉蘭とお呼び下さい。お名前を伺ってもよろしいですか?」
「あ・・・秋生、て言います」
「秋生様。あら・・・もしかして日本人?」
「ええ」
「広東語がお上手なんですね」
 微妙に秋生は笑う。目の前にカクテルが置かれた。
「えーと、玉蘭さんも何か飲む?」
「お言葉に甘えていただきます」
 この店の金額設定がどうなっているのか秋生にはわからなかったが、ヘンリーが楽しんで行けと 言ったからにはそのへんは心配しなくてもいいのだろう・・・たぶん。


 緊張していた秋生だったが、玉蘭と当たり障りのない話題に花を咲かせるうちにそれも解れてくる。 一見したところ黒社会とは全く縁の無さそうな秋生とヘンリーがどう繋がるのが不思議で仕方ない だろうに玉蘭はそんなことはおくびにも出さず、秋生を楽しませてくれる。
 秋生も久しぶりに美人と楽しく過ごせて幸せだった。

 ・・・が、幸せのまま終わらないのが、秋生の秋生たるゆえんである。


 店内のどこかで、ガシャンッ!と鋭い音が響いた。
 客たちの視線が一斉にその方向へ向く。どうやら手前のBOX席からの音らしい。

「こ~んな、水っぽい酒が飲めるか!馬鹿野郎っ!!」
 そのBOX席の客の一人が立ち上がり、ボトルから酒を床にぶちまけた。
 きゃっ、と女の子の叫び声が混じる。
「何だ、この店は!酒を水で薄めて客に出すのかぁ?」
 仮にもヘンリーが直営の店でそんなことをさせるはずもない。客は完全に酔っ払っていた。
 そうでなければここでこんな騒ぎを起こすわけがない。
 だが、いつもなら即座に騒ぎを収めに入るはずの男たちが今日に限っていっこうに現れない。
 タイミング悪く、地盤でおこったいざこざの処理にヘンリーと共に事務所に上がっていたのだ。
「おっ・・・何だ、綺麗なねーちゃんがおるじゃないか」
 顔を赤く染めた男は、自分のBOXに座る女の子を突き飛ばし、何と秋生のほうへやって来るでは ないか!
「何や、そんなガキの相手なんかしとらんで俺に付き合え」
 男はがしっと玉蘭の細い手首を掴み、乱暴に引き寄せた。
「やめてっ下さいっ!」
「いーからいーから」
 悲鳴のような玉蘭の声に秋生ははっと我にかえった。
「ちょ・・彼女嫌がってるだろっ」
 勇気をふりしぼって、手に汗握り男に文句を言い放った。
「ガキは黙ってろっ!」
 どんっと突き飛ばされた。椅子が倒れ、カウンターに置いてあった酒が秋生の手にあたって諸共に 床に落ち、騒々しい音を立てる。見守っていた客たちから悲鳴があがった。
 酒瓶のガラス片が運悪く、秋生の腕に刺さり血が流れ出たのだ。
 大した傷ではないのだが、アルコールが入っていたせいで普通より出血が多い。
 その秋生の姿に、秋生が”ヘンリーの客”であることを知っていた玉蘭を含む何人かが顔を蒼白に した。ヘンリーからはいつになく厳しく言い含められていたのだ。


「俺の店で何してやがるっ!」

 低い、猛々しい怒声に空気が震え、場が固まった。
 騒ぎを聞きつけたヘンリーたちが駆けつけたのだ。
 ヘンリーはまず最初に秋生の無事を・・・と目を向けた先で床に倒れ腕から出血している姿に 唸り声をもらし、元凶である男をサングラスの奥から射殺さんばかりに睨みつけた。
 ヘンリーはその大柄な体格からは想像がつかないほどに素早い動きで男に接近すると、殴り飛ば した。多少は手加減していたのだろうが、男は5メートルは裕に吹っ飛んだ。
「始末しろ」
 背後の男たちに命令し、ヘンリーは倒れこむ秋生に近づく。
「・・・大丈夫か?」
 腕の傷を確認しながら秋生に尋ねる。
「うん、大丈夫。掠っただけだから」
「・・・すまん、まさか俺の店で怪我をさせちまうとは」
 深い悔恨の声と、下げられた頭にヘンリーを知っている者たちが息を呑んだ。
「病院に行くか?」
「だ、大丈夫だって!このくらい消毒しとけばすぐに治るよ・・・って!?」
 秋生は有無を言わさずヘンリーに抱き上げられた。
「へ、ヘンリーっ!?」
「上の事務所で手当てしよう。・・・おい、後は任せたぞ」
 ヘンリーの言葉に男たちと店の女性が頭を下げる・・・・内心の驚愕を隠して。
 それを確認する間もなく、ヘンリーは秋生を抱えて姿を消した。

 
 ヘンリー・西。13Kの虎とも恐れられる相手が女性以外にあれほど丁重に扱う相手を初めて手下 たちは目にした。・・・いや、女性以上に、というのが正しい。
 あまりぱっとしない印象の・・よく見れば顔は整っているが・・青年がヘンリー・西の『特別』である ことはもはや疑うべくもない。
 
 騒ぎを起こした男は気絶していて、引きずられるように店内を出て行く。
 男の末路は・・・想像するに容易い。
 その姿が消えると、店員は客たちに頭を下げ、ようやく平穏な時が流れ始めたのだった。

 
 
「ヘンリー、もう下ろしてよ・・・」
「動くな、アルコールのせいで出血が多くなってるんだからな」
「大丈夫だって・・・」
 疲れたように呟いた秋生は革張りのソファに下ろされた。
 秋生の腕をさっと見ると、どこからか薬箱を持ってきて消毒をはじめる。
「・・・痕、残るかな?」
「まぁ、しばらくは。化膿しないかぎり、そのうち消えるだろ」
 秋生は心底ほっとして肩をおろす。
「何だ?傷が残るのは嫌なのか?」
「そうじゃなくて・・・・痕が残ったら、ほら・・ビンセントが」
 ああ、なるほどとヘンリーが苦笑まじりに頷いた。
 あの超絶過保護の青龍のこと、秋生の痕を見つけたら必ず追求するだろう。そして元凶たるヘンリー はただではすまない。
「ねぇ、ヘンリー、ビンセントには言わないでくれる?」
「・・・・・・」
 そうもいかないだろと思うが、確かに傷自体は大したことは無い。
 ビンセントに連絡して大事にするのも秋生が少々可哀想だ。
「・・・仕方ねぇな。今回は全面的に俺が悪ぃしな」
「っありがとっ!ヘンリー!」
 喜ぶ秋生の腕に包帯を巻く。
 ビンセントのことだ。黙っていてもどこからか情報を仕入れてきそうだが、そのときはそのときだ。
「とんだお楽しみになっちまったな。帰りは送っていこう・・・マンションのほうでいいか?」
「さすがにこれでビンセントの屋敷には帰れないから」
 言った秋生に、もっともだとヘンリーは笑い秋生の頭をぽんぽんと軽く叩いた。