迷子の迷子の・・


「・・・ヒマだ」
 広い屋敷に秋生の言葉がぽとり、と落ちた。
 日本に帰国してすぐにビザを取り直し、再び香港にやって来た秋生はさして深く考えることなく ビンセント・青の屋敷に世話になることになった。
 普通の庶民的な日本人としての生活を送っていた秋生にとってビンセントの広くて豪華でいかにも 金持ちそうな屋敷に住めてとても幸せだったのだが、それも初めの頃だけ。
 いくら広い屋敷でも何もせずに一日中缶詰を強要されるとそろそろ飽きてくる。
 ビンセントにはくれぐれもお一人で外出されませんように、と念を押されているが所詮そこは秋生だ。
 
(バレなきゃいいよな・・・?)
 どう考えたって黄龍の気を読めるビンセントが、己の屋敷の中からその気が消えるのをわからない わけが無いのだが。

「せっかく香港に居るんだから!」
 よしっ!と座り心地抜群のソファから立ち上がると、僅かな所持金をポケットに入れて秋生は ビクトリアピークのビンセントの屋敷を飛び出したのだった。





 バスに乗り、湾仔(ワンチャイ)にやって来た秋生はとりあえず、人で溢れかえる通りを流れのまま 歩いていく。様々な品物を並べている露店は見ているだけでも楽しい。
「うわ、これどうやって作るんだろう?」
 一つの露店で秋生は足を止めた。その露店には拳大のものからスイカほどの大きさまでの水晶が 並べられていて、その水晶の中には絵が書かれている。
「おや、兄さん。知らないのかい?ここから筆を入れてじかに絵を描くんだよ」
 人の良さそうな店主が実演してくれる。細い穴から水晶に筆を入れて緻密な絵を描いていくのはかなり の技巧がいるだろうに、秋生が見守る先であれよあれよと一つ出来上がる。
「さ、出来上がりだ。どうだい?土産に買っていかないかね?」
「いや・・・」
 確かに珍しくはあるが、買って帰るほどでは無い。だいたい誰への土産にするのやら。
 秋生は緩い笑顔を浮かべつつ足を動かした。
「そういえば・・」
 このあたりでは無かっただろうか、ヘンリーが秋生に連れて行ってやるといつか言っていた店が あるのは・・・。
「そろそろ昼時だしなぁ・・・店の名前何て言ったけ?」
 ぼんやりと思い出し、探してみようかと思案した秋生はヘンリーの稼業のことなどすっかり忘れ果てて いた。秋生の頭の中にあったのは、再会した祝いにとヘンリー自ら腕をふるってくれた料理の数々。
 どれも最高においしかった。
「うーん、思い出せない・・・仕方ない一度帰って」
 ビンセントに聞いてみよう、と振り返った秋生は呆然と立ち尽くした。

「・・・・・ここ、どこ?」
 秋生は完全に道に迷っていた。




「・・・とりあえず、大きい通りに出よう」
 そうすればバスが走っているはずで、そこでビクトリアピークへの行くのに乗ればいい。
 そう考える秋生は確かに間違ってはいなかった・・・無事に大通りへ出られさえすれば。
 だが、何本もの通りを曲がり、曲がり・・・時には真っ直ぐに進みつつ、やはり曲がり。秋生が行きつい た先は何故か行き止まり。目の前には薄汚れた壁が立ちはだかっていた。
「・・・マズイかも」
 すでに不案内な地で迷った時点でマズイのだが、今さらながらに秋生は困ったような笑いを漏らす。
 こんなことなら、さっきのところで誰かに道を聞けば良かった、なんて思うが、なぜかこういうときには 誰も通りがかってくれない。実際秋生が迷いこんだあたりは、あまり治安の良くない場所で香港の人 でさえあまり足を踏み入れないあたりだったのだ。
 当然そんなところに、育ちのよさそうな秋生のような人間がふらふらしていれば絶好のカモとばかりに チンピラどもに目をつけられる。
 元来た道を引き返そうとした秋生の目の前には手元にナイフをちらつかせる柄の良く無さそうな兄ちゃ んたちが立っていた。
「よぉ、兄ちゃん」
「こんなところで観光かい?」
 じりじりと近寄るチンピラにさすがに秋生も口元をひくつかせて後ろへ下がる。
「いや、ちょっと迷っちゃって・・・大通りへ出る道教えてくれないかなぁなんて」
 それでもチンピラに道を聞くあたり、大物かもしれない。
「迷子だってさ。お前教えてやれよ」
「いいぜ~、ただし授業料は高いけどなぁ~」
 下がる秋生の背に壁が当たる。
「あいにく、僕・・あまり持ち合わせが無いんだけど・・・」
 言いつつも秋生は有り金全部巻き上げられるのを覚悟していた。どうせ本当に微々たる金額しか持って いないのだ。それで道が教えてもらえるなら不幸中の幸いということにしておこう。
 チンピラたちは秋生が差し出した財布を奪い取ると中身を確認しようとした。
 そこへ。

「おい」
 突然かかった低い声にチンピラたちは飛び上がった。

「大哥(アニキ)!」
「っヘンリーッ!」
「無事だったか・・・おい、てめぇら何してやがる」
 低い恫喝交じりの声に二人のチンピラが震え上がる。顔もさっと蒼ざめた。
 反対に秋生は救いの神、とばかりにほっと肩をおろしたのだった。




「・・・無事でよかった」
「え?」
 チンピラを追い払い、秋生に傷一つ無いことを確認したヘンリーはしみじみと呟いた。
「俺のシマでお前に怪我させたなんて知れたら青龍に殺されるところだったぜ」
「そんな大げさな。でも、助かったよ。ヘンリー。実は道に迷ってて・・・」
 秋生のセリフにサングラスの向こうから呆れた視線が投げかけられる。
「・・・まぁ、今度から一人で歩くなよ?」
「そうだね、今度はちゃんとガイドマップ持って歩くよ」
 そういうことでは無いのだが。
「よし、じゃぁ俺の店行くか。ビンセントの奴も待ってるだろうからな」
「え゛」
「まさかバレて無いとでも思ってたのか?」
「・・・はははははは」
 笑うしかない。
「・・・ビンセントには僕が迷子になってたことは秘密にしておいてくれないかなぁ」
「そうだな。今度からちゃんと言いつけ守れるならな」
「僕、これでも二十歳を超えたんだけどね・・・」
 大人だといいたいらしいが、五千年の時を生きる四聖獣たちにとっては赤子も同然だ。
「・・・わかったよ」
 沈黙するヘンリーに、しぶしぶ秋生は頷いたのだった。