ちいさな悩み大きな悩み
突然だが。
工藤秋生 21歳は悩んでいた。
21歳の大学生の悩みといえばおわかりだろう。
――――― そう、『就職』である。
「働かざる者食うべからずだよな・・・」
秋生はマンションの自分の部屋のビクトリア・ハーパーを望むテラスで肘をついてぽつりと
呟いた。
「でもなぁ・・・こっちで就職するにしても」
ここは香港である。
日本人である秋生はビザを取り直さなければならない。
いや、そもそも香港で就職するなんて出来るだろうか。
ある人物の顔が瞬時に浮かぶ。
・・・できないことは無いだろう。
でも。
秋生の父親が許すかどうかは別だ。
大学の成績は悪くは無いし、言語の問題も全くない。
素行だって良いほうだと思う。
就職活動すれば内定の1つや2つはもらえる・・・だろう。たぶん。
それが不況の日本であれ、香港であれ・・・。
「でも僕がそんなことするって言ったら絶対反対するだろうしなぁ」
言葉まで想像できる。
『ミスター・工藤。あなたは御自分が何者かわかっていらっしゃるんですか?』
「うん、わかってる・・・つもりなんだけど」
わかるのと納得するのは違う。
確かに自分が普通の人間じゃないのはわかっている。
「・・・でも、普段もビンセントたちみたいに特別に力が使えるわけじゃないし・・・」
至って普通の”人”として秋生は生活している。
「だから普通に就職したいんだけどなぁ・・・」
それほど贅沢な悩みではないと思う。
「ま、悩んでても仕方ないか」
秋生は気分を切り替えると出かける準備をはじめた。
”昼食を一緒に”と約束していたのだ。
「えー、あの工藤と言いますが・・・」
秋生は約束していた昼食の場所、ペニンシュラ・ホテルで待ち合わせをしていた旨を
告げる。
本当はビンセントが迎えに行くと言ったのだが、わざわざ迎えに来てもらうほどのものでも
無いと秋生が断ったのだ。
「ミスター・工藤」
ボーイが案内するよりも早く、ビンセントが現れた。
「ご無事で何よりです」
「大げさだよ、ビンセント」
苦笑する秋生をボーイを制したビンセントがエスコートする。
その様はまるで主に仕える従者のようで。
(本人は全くもってそのつもりだが)
著名人である東海公司の社長、ビンセント=青がそこまでする相手は誰なのかと周囲の視線が
集まってくる。
ビンセントはそんな下世話な視線から秋生を巧みに隠しながら、人目に触れないVIP席の
椅子をひいて秋生を座らせた。
「料理はいかがしましょうか?」
「ビンセントにまかせるよ」
秋生にはこれといって食べたいものは無い。
美味しければいいのだ。
そして、ビンセントにまかせておけばはずれはない。
「では・・・」
ビンセントがボーイを呼び、指示を与えると一礼して去っていく。
やはり、一流ホテルとなるとボーイの仕草まで洗練されている。
―――― こういう所に就職するのはいったいどんな人なのだろう。
再び、秋生の思考が巡り出した。
「ミスター・工藤?」
「・・・え」
ボーイの姿を見るともなく追っていた秋生はビンセントの呼びかけに反応が遅れた。
「どこか具合でも?それでしたら今日は」
「ちょ、ちょっと待って!僕は別にどこも悪くないって」
超絶心配性なビンセントの早合点に慌てて止める。
ここまで来て中止というはいただけない。
「では」
いったいどうされたのですか?と本人にその気は無いのだろうが、言わずにはいられない
空気を醸し出すビンセントに秋生は早々に白状した。
「いや、こういうホテルで働く人ってどんな人たちなのかなーと思って」
「どんな人とは?」
「だって、ボーイの人でも受け付けの人でも・・・みんな凄くきびきびしてて、それでいて優雅って
いうか・・・落ち着いてるっていうか」
「ああ、それは教育の賜物でしょう。ホテルというのは客の評判が全てです。いい加減な対応では
悪印象を与えるばかりで客足は途絶えてしまう。そのためにも徹底的な社員教育が行われます」
「そうかぁ・・・とても僕じゃ勤まらないよね」
「ミスター・工藤!?まさかホテルで働かれるおつもりですか?」
ビンセントが驚いたというか焦った口調で秋生に問い掛ける。
「何か足りないものがあれば言って下されば」
「ち、違うよ!・・・ただ、ね」
「ただ?」
ボーイが料理を運んできて一時会話が中断する。
白淡のとろみがついたスープは口に含むとさわやかで一気に疲れがとれていくようだった。
「ミスター・工藤。お話の続きですが」
「あ、うん。えーと、そう。僕もそろそろ大学を卒業だろう。就職をどうしようかと思って」
「ああ、左様ですか。もしや日本にお戻りになるつもりでいらっしゃいますか?」
「うーん、そういう気持ちも無いではないけど・・・僕はみんなが居るこっちで就職したいなて
思ってる・・・セシリアやヘンリー、玄冥・・・ビンセントに会えなくなるのは寂しいから・・・
あー、ちょっと照れるかな・・・はは」
「ミスター・工藤・・・」
見るとビンセントは凄まじく感激しているようで食事の手が止まっている。
「そのようにありがたいお言葉をいただけて嬉しゅうございます」
「もう、オーバーなんだからビンセントは」
常人ならば一歩ひいてしまうようなビンセントの行動にも慣れている秋生には何ほどのもの
でもない。
ちょっとした冗談のように終わってしまう。
「それでミスター・工藤はもうどこに就職されるか決められたのですか?」
「うん、それがまだなんだ。ちょっと迷ってて・・・僕の取りえと言ったら英語と日本語と広東語が
自由になるくらいだから。父さんみたいに商社もいいかなと思うけど・・・そうすると転勤とか
あるから香港にずっと居ることも出来ない可能性もあるだろう?」
「そうですね」
「通訳っていう手もあるけど・・・やっぱり経済に疎くちゃ勤まらないし」
その後も秋生のあーでもない、こーでもないは続く。
それにいちいち頷くビンセント。
忙しいビンセントに昼休みなどあるはずが無いが秋生のためならば商談の一つや二つ
平気で無視してしまうだろう。
「それでどうしようか悩んでるんだ」
と漸く話が一段落して秋生がデザートの杏仁豆腐を口に含んだ。
しつこくない甘さが口に広がる。
絶品だ。
「では、こうしてはいかがでしょう?」
「ん?」
「東海公司に就職されるというのは?」
けほんっ!
秋生が杏仁豆腐を喉につまらせた。
「ごほっごほっ!!」
「ミスター・工藤!大丈夫ですか・・・水を」
慌ててビンセントが席をたち、秋生の背中をさすりながら水を差し出した。
「ん・・ありがとう、ビンセント。もう大丈夫だよ・・・だけどびっくりしたぁ」
「そうでしょうか?」
「うん、だって僕が東海公司に就職なんて出来るわけ無いよ。大学でも聞いたけどすごく
難関だって皆言っていたから」
「問題ありません。ミスター工藤は重役・・いえ、会長として入社していただきますから」
「えぇぇっ!?・・・冗談だよね、ビンセント」
恐る恐る、ひきつった笑顔で秋生が尋ねると・・・・
「私は冗談は言いません」
真顔で言い放つ。
言葉通り、ビンセント・青はどこまでも本気だった。
「あのね・・ビンセント。いったいどこの世界に大学出たてのペーペーを会長なんかで採用する
企業があるっていうんだよ」
「こちらに」
「・・・・・・僕は嫌だからね」
「何故です?私の会社は魅力がありませんか?」
「そうじゃなくて・・・ビンセントの東海公司は香港でも1,2を争う凄い企業だと思うよ。
だからこそ僕なんかが入社できないよ」
「そのようなことはありません。ミスター工藤に会長として就任していただければ私としも
これ以上の喜びはありません。そもそも東海公司はミスター工藤のために建てた会社です。
ミスター工藤が会長として就任するのは当然のことです」
「ビンセント」
秋生はにこりと笑うと首を振った・・・横に。
「違うよ、”僕のため”じゃない。黄龍のためだよ」
「それは・・・」
否定はできない。
「誤解しないでよ、ビンセント。僕は別に怒ってるわけでも悲しいわけでもない。ビンセントが
そう言ってくれて本当に嬉しい。でもね」
「ミスター工藤・・・」
「僕は”工藤秋生”ていう人生を送りたいんだ。黄龍じゃなくてね。・・・わかってくれる?」
「わかりたくはありませんが、ミスター工藤のお気持ちも理解できます」
しぶしぶとビンセントが苦笑しながら頷いた。
「ありがとう」
秋生は今日一番の笑顔をビンセントに見せた。
――― この私を頷かせてしまう説得力・・・そして全てを包みこむようなこの笑顔。
――― 決してミスター工藤は自分で思われているほど無能ではない。いや、むしろ・・・
「ビンセントは僕の就職活動がうまくいくように応援しててよ」
「何もお手伝いせずに?」
「だってビンセントが手伝ったらコネを使うことになるだろう?」
「コネも立派な戦術ですよ」
「でも、僕は嫌なんだ。コネが嫌なんじゃなくて・・・それに甘えてる気がしてね」
「私としてはもう少し甘えていただきたいほどですが・・・」
「ははは、十分ビンセントには甘えてるよ。今日だってセシリアに”今日も豪華なお昼で結構なこと”
て言われて出てきたんだから」
「セシリアには注意しておきましょう」
ビンセントの眉が険悪にひそめられる。
「いいって!」
そんなことしたら、後で秋生がどんな目にあわされるかわからない。
恐るべしセシリア、である。
「だから、それだけ僕がビンセントに甘えてるってことなんだよ」
「この程度は甘えられているうちには入りません」
秋生は所在なげに紅茶を口に運ぶ。
「・・・だったら一つ我儘言ってもいいかな?」
カチャンと陶器が重なる音がした。
「一つと言われずいくらでもどうぞ」
「それじゃあ、遠慮なく」
秋生はビンセントに真っ直ぐに視線を向けた。
「僕のこと”秋生”て呼んでよ」
「・・・っ!?」
「だって、セシリアもヘンリーも名前で呼んでくれるけどビンセントだけは未だに”ミスター”なんて
つけて呼ぶだろう。ちょっと寂しいんだよね」
「それは・・・」
今までこれほど難しい商談も無かっただろうと思われるほどビンセントの顔がゆがむ。
「ダメかなぁ?」
「・・・ミスター・工藤」
「ほら、また」
「ですが、私にミスター工藤を呼び捨てになど出来ません」
「どうしても?僕の我儘でも?」
「・・・・・・。わかりました。一度だけでしたら」
どうやらビンセントにとってそれが精一杯の譲歩らしい。
「それじゃ、呼んで」
「・・・今すぐにですか?」
「うん」
秋生はわくわくと期待に目を輝かせてビンセントを見つめる。
ビンセントはその瞳を落胆で曇らせることなど出来なかった。
「では・・・・」
ビンセントは普段でも正しい姿勢をさらにただす。
『秋生』
そして、秋生の耳に優しいテノールが響いた。
「・・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
二人の間にしばし、沈黙が横たわる。
はじめに動いたのは秋生だった。
両手を頬にあてて”うわー・・・”と目を細める。
その頬は赤い。
「ミスター工藤?」
「何だか・・・・・・・・・・すごく照れる」
「・・・・・・・・」
秋生のセリフにビンセントも困惑した表情を浮かべた。
「でも・・・ありがとう、ビンセント」
「・・・いえ」
そして、短いような長いような昼食の時間は終わる。
「では、ミスター工藤」
わざわざ運転席から降り、助手席の扉を開ける。
「うん、送ってくれてありがとう」
「今夜は?」
「ヘンリーたちと約束してる。ビンセントも来るの?」
「いえ、私は仕事が入っておりますので」
「そっか残念。また今度だね」
「・・・・・」
「どうしたの?」
「就職のことですが・・」
「うん」
「お言葉通り応援させていただきますから頑張って下さい」
「うんっ!ありがとうっ!頑張るよ」
「では、失礼します」
ビンセントは車上の人となり、秋生は手を振りながら見送った。
「・・・よしっ!頑張るぞ!」
秋生は天に向かって腕を伸ばした。
だが・・・・・。
その前に卒業単位の確保である。