■ 天香国色 ■









 慶東国金波宮       
 治世300年を誇る女王の御世は恙無く、本日もまた・・・・・・・・・・・波乱に満ちていた。








 先頃女御として王宮に上がった菫麗(きんれい)は、緊張した面持ちで両手に朱塗りの盆を掲げ、しずしずと
よく磨かれた廊下を歩いていた。盆の上には、白磁の茶杯が二つと茶筒が一つ。
 そろそろ主上の堂室に常備されているお茶が無くなる頃だから、と上司に言われて、菫麗は畏れ多くも主上の
元へとお茶を運ぶという栄誉を授けられたわけであるが、何も新人の自分にこんな・・恐ろしいことをさせなくとも
と思ったのもまた確かだった。
 まだ王宮に上がったばかりの新人である菫麗は、まだ主上にお目にかかったことがない。
 王の身の回りを整えるのが女御の仕事とはいえ、主上のお側近くに寄れる人間は限定される。古参の者か、余程
の後ろ盾がある者・・・菫麗はそのどれにも当てはまらない。それなのにこんな次第になったのは、本当にたまたま
誰の手も空いていなかったという、幸か不幸かわからない仕儀による。
 はぁ、と零れそうになる溜息を飲み込んで菫麗は、主上の堂室まであと10歩というところで立ち止まった。
 大きな槍を持った兵士が通せんぼをしていたからだ。

「あ、あの・・・・」
「女御殿か?・・・見ない顔だな」
「あ、はい・・一月前よりお仕えさせていただいております・・・あの、主上にお茶を・・・」
「そうか。俺は大僕の虎嘯と言う。よろしくな」
「あ、はい・・・こちらこそ、よろしくお願い申し上げます」
 大僕、といえば主上の警護をされる方・・と菫麗は思い出した。
「いい頃合だったな。そろそろ冢宰との話も終わる頃だろう」
 冢宰・・・再び菫麗は固まった。主上も冢宰も、菫麗のような女御には雲の上・・・もっとも今の彼女が居るのも
事実、雲の上であるのだが・・・の方々である。改めて、何て畏れ多いことと萎縮した。このまま盆など投げ打って
回れ右をしたくなったが、畏れ多いからといって仕事を放棄していたら、この金波宮で出来る仕事は無い。
「で、では・・あの、よろしいでしょうか?」
「ん?いーんじゃねぇか?」
 晴れて大僕の許しを得て、菫麗は堂室まであと一歩。声を掛けようとしたところで、中から響いた美声に口を
開きかけたまま固まった。


      全く、お前には敵わないな」
「恐れ入ります」
 笑いのまじった会話は、主上と冢宰なのだろう。
 菫麗の手が緊張に震える。それにあわせて、盆の上の白磁がかたかたと音を立てた。

「誰だ?」
 その音に反応して、中から誰何の声が掛かる。
 女性にしては低いものの、凛とした美声に菫麗は、わずかに遅れてあえぐように言葉を紡いだ。
「お、・・・お茶を、お持ちいたし、ました・・」
 礼儀作法については、王宮に上がる前にびしばしと叩き込まれたというのに、全く役に立っていない。
 声は震えて、言葉は途切れ途切れ。
 いったい今までの苦労は、と自己嫌悪に苛まれそうになる菫麗の目の前で、静かに堂室の扉が開いた。
 視線を上げれば、官服を纏った涼やかな美貌の男性が、穏やかな微笑を浮かべて立っている。
「ご苦労」
「あ、はい・・いえ、あの・・失礼致しますっ」
 全ての官吏を纏める立場にある冢宰閣下に間違いない。
 両手で盆を掲げているため、跪礼も立礼もすることが出来ず居たたまれない思いを抱きながら、何とか頭だけは
下げて堂室の中へと一歩踏み出した。

「・・・お茶を、お取替えに参りました」
 視線を下げたまま、菫麗は目の前に居るであろう主上に向かって用件を述べた。
「ああ、そういえばそろそろ終わる頃だと思っていたんだ。ありがとう・・・えーと、菫麗、だったかな」
「・・・っ!」
 菫麗は危うく盆を取り落としそうになるほど驚いた。
 まさか自分ごときの名前を主上が覚えているなど、天変地異でも起こりかねない衝撃だった。
「あれ、人違いだったか?」
「いえっ、私は、確かに菫麗と申します・・っ」
「良かった・・・美しい姿によく似合った名だと思って覚えていたんだ」
 菫麗は硬直し、みるみる顔を赤く染めた。
「そ・・・」
 いったい何と応えればいいのか、菫麗には全くわからなかった。恐れ入ります?それとも、それとも???

「主上、いい加減に女官を口説くのはおやめ下さいと天官長に奏上されたのをお忘れですか?」
 そこに苦笑まじりの冢宰の助け舟が入った。
「心外だな。私は未だ嘗てそんなことをした覚えは無い。祥瓊といいお前といい大げさすぎる」
「左様でございますか?」
「ああ、私に身に覚えは全く無い」
「自覚が無いというのも困ったものでございますね」
「やっていないものを自覚しようが無い」
「そういうことにしておきましょう」
「何だ、いやに突っかかるな」
 伏せた頭の上でされる遣り取りに、菫麗は眩暈のする思考を必死で抑える。
「いえ、常々思っておりますもので」
「何を?」
「女官たちは主上にお優しい言葉を毎日掛けてもらえて羨ましい、と。私どもには主上は『意地悪』ですから」
 ふ、と空気が柔らかく動いた。
「意地悪、ときたか・・・。私も大概お前たちに『意地悪』されたのだから仕返しだ」
「そんな畏れ多いことをいたしましたか?」
「ああ、したな。浩瀚を冢宰にしてからずっといじめられ通しだ」
「これはこれは・・・臣どもの忠心ゆえの行動を『いじめ』とは嘆かわしいことでございます。いえ、きっとそれも臣
どもの不徳といたすところでございましょう」
「・・・全く、そういうところが可愛くないのだ」
「それは、申し訳ございません」
「全然そんなこと思っていないくせに・・・・・・・・・・・ああ、そうだ!」
 主上が椅子から立ち上がる衣擦れの音がし、菫麗の視界にその端が映った。藍色の衣は上質ではあったが
簡素で、とても女王が身にまとうにふさわしいものでは無い。だいたいにして、いつも主上が身にまとうのは官服
ばかりに女官たちは、日々残念に・・・・


「そんなに私に優しくしてもらいたいのなら、浩瀚。          後宮に入るか?」


 主上の衝撃的発言に、一拍置いて返ってきたのは何ともにぎやかな音だった。
         菫麗が、ついに見事に盆をひっくり返したのだ。


「っ・・・・も、申し訳ございませんっ!!すぐに、片付けますので・・・っ」
 何という失態。最後の最後でしくじるとは・・・菫麗は床に散らばる白磁の欠片に涙が出そうになりながら手を
伸ばす・・・・・伸ばそうとして、つかまれた。
 はっと視線を上げれば、美しい翡翠の眼差しが菫麗を射る。
「陶器の欠片は存外鋭い。怪我をする」
「・・・・・・・・」
 秀麗な美貌を間近にした菫麗は、陶然としてただ主上を見つめた。
「このように、たおやかな手では尚更危ない。怪我などさせては私が天官長に怒られる」
 浮かべた微笑は、力強く・・・けれど包容力に溢れ、今まで菫麗が見た誰のものより魅力的だった。
「驚かせてしまって悪かったな、菫麗・・・・・菫麗?」
 鈍い反応しか返さない菫麗に、主上・・・陽子は、首を傾げる。




 その様子を、傍で眺めていた浩瀚は苦笑して内心で呟いた。

(主上の後宮になど入ったが最後、金波宮中の女性を敵に回して生きた心地もしないでしょう・・・謹んでお断り
申し上げますよ・・・・)






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・・・誑し陽子、とこれから呼ぶことにしましょう(笑)