■ 遠見幽影 ■







 かたり、と小さな音がした

 夜も更け、内宰らが起こした謀反の騒ぎもとりあえず一段落し、陽子も臥牀に横になろうとしていた。
 そんな中に響いた音。小さくはあったが、驚くほどに部屋に響いた。
 未だ緊張感が抜けない陽子は何か、と振り向くと、夜闇の中に金色に輝く光が・・・あった。

「・・延台輔・・・六太君」
「悪いな、こんなに遅く・・・」
「いいえ、構いません」
 陽子は立ち上がると、延麒を小卓へ招いた。
 いつもの元気さが嘘のように静かな延麒を不思議に思いながら、陽子は臥室の隅に用意されている
 お茶を手ずから煎れる。
 景麒などは、身の回りのことは女官たちの仕事だからと陽子が自ら手を出すことをあまりよくは思っていない
 ようだが、元々『自分のことは自分でする』という習慣のついていた陽子は、女官に何かを言いつけるというのが
 まだまだ慣れない・・・慣れるのかどうかも疑わしいが。
「どうぞ」
「すまない・・・ちょっとだけいいか?」
「はい。・・・あ、そうだ」
「??」
「まだお礼を言ってませんでしたね。使令をありがとうございました」
「何、いんだって。・・・あのな、陽子・・・何て言うか、こういうの苦手なんだけどさ・・・」
「はい?」
 逡巡していた延麒は、陽子に透明な眼差しを向けた。
 それは底知れない深さを思わせ、500年の時を感じさせる。


「諦めるな」


 はっとしたように陽子が目を瞠る。

「使令に聞いた。・・・抵抗しなかったんだってな」
「・・・・・・・すみません」
「違う。責めてるんじゃない・・・俺も経験あるからな」
 湯呑を両手で抱え、その揺れるお茶に視線を注ぎながら、さりげなく告げる。
「え・・・」
「俺の場合は、臣下じゃなくて、友達だったけど・・・結構くるよな。信じてた奴に裏切られるの」
「六太君・・・」
「あーもう、いいや・・て全てを投げ出したくなるっつーか・・・突き抜けるんだよな。・・・友達だなんて思ってたのは
 こっちの独りよがりで、相手は俺のことなんてどうでも良かったのか、て・・・すげーショックだよ」
「・・・・・・・」
「麒麟ってさ、王を選んだら後はほとんど役立たずで・・・血生臭いことには関われねーし、人が争うのは戦って
 血を流さなくったって言い争うだけでも気分が悪くなる。麒麟は民意の表れだって言うけど、ならどうして人は
 争うのをやめないんだろう。どうして、人が人を傷つけて平気なんだろう。500年ずっと考えてるけど、俺には
 どうしてもわからない。仕方ない、て言うのは簡単だけどさ、そんな言葉で断ち切っていいのか?疑問ばかり
 浮んで、解答は何一つ現れない」
 延麒は窓の外、闇の彼方を見つめる。

「・・・それでも、『諦めない』んですね」

「・・そこで諦めたら、何も解決しないまま終わるからな。・・・気持ち悪いだろ?」
「・・・そうですね・・・私も、諦めたく、無い」
「うん、俺も。まだ陽子には諦めてもらいたくない・・そうするには早すぎるだろ」
「ええ、確かに・・・まだ、何も出来てない・・・」
「人には色々あるし、思いの抱きようも千差万別だ。良かれと思ったことだって、相手には迷惑や悪く思われること
 だってよくあることだし・・・何で、天帝はそんな風に人を作ったんだろう。皆同じだったら苦労しないのにさ」
「・・・それは・・・全て同じものしか無い世界なんて、存在する意味が無いからじゃありませんか?」
「ん?」
「・・・うまく言えないんだけど・・・官吏が皆、景麒みたいなのだと私は困る」
 ぽかん、と陽子を見つめた延麒が、ぷっと吹き出した。
「だよなぁ・・確かに俺も周りが皆、朱衡みたいなんだったら嫌だな・・・朝議だって三日に一度なんて許してくれ
 なさそうだし・・・抜け出すのも難しくなるだろうなぁ」
「え?・・・雁国では朝議が三日に一度なんですか?」
 聞き捨てなら無いことを聞いたとばかりに、陽子は延麒に迫った。
「あ、ああ・・随分前に尚隆の奴が勅令で決めたんだ。あいつろくなことしないけど、俺は英断だと思ったな、うん」
 おそらく雁の官吏は他の誰も延麒と同じように評価はしないだろう。
 そういう意味ではやはり似たもの主従なのか。
「・・・ずるいな」
「何だ羨ましいのか?だったら陽子も勅令で断行してみれば?」
「・・・してみたとする。・・で次の三日後の朝議には勅令で取り消すことになるんだ、絶対」
 浩瀚や景麒が三日の間、ひたすらに陽子に嫌味を言い続ける姿が目に浮ぶ。
 その陽子のいかにも嫌そうな顔に、延麒が腹を抱えて笑い出した。
「笑いごとじゃない」
「っ・・・ごめん、悪い・・・っ想像したら・・っ」
「六太君」
 ひとしきり笑った延麒は、あー参った・・と小卓に突っ伏した。
「・・・陽子を元気づけようと思った来たのに、これじゃあ逆だ」
「六太君、そんなこと無い。・・・あのまま寝てたら暗く落ち込んだままになってただろう。・・・ありがとう」
「俺こそ、ありがとな。ちびを見つけてくれて・・・まだ落ち着かないのに負担かけた」
「それはもう言いっこなしですよ。うちのためでもあるって言ったじゃないですか」
「陽子」
 柔らかに笑みを浮かべる陽子に、延麒は立ち上がるとぎゅっと抱きついた。
「陽子は・・・強いな」
「六太君」
「・・そろそろ帰るな。これ以上邪魔できないから・・・・おやすみ」
「おやすみ」
 延麒は帰る時も窓からなのか、桟に手をかける。
「あのな、陽子・・・」
「はい」


「俺な、まだそいつのこと・・・・・友達だって思ってるんだ」


「・・・・・。はい」
「諦めなかったら・・・叶う想いもたくさんある」
「はい」
「だから・・・」
「ありがとう、六太君。大丈夫ですよ。こう見えても私は諦めが悪いんだ」
「・・・・・・うん」

 振り向いた延麒の髪が、月の光を浴びて輝く。

「俺は、信じてるから」
 陽子のことを。

「・・・・ありがとう」